人間は自己愛で生きている

私があるチームの監督だったとき、中心選手の一人がFA(フリーエージェント)権を取得した。その選手は「優勝できるチームに行きたい」と発言し、移籍を希望した。

野村克也『人は変われる 「ほめる」「叱る」「ぼやく」野村再生工場の才能覚醒術』(プレジデント社)

実績を考えれば、獲得の意思を示すチームはあると思われた。本人も複数から誘いがあるものと信じていたようだ。しかし、どこからも声はかからなかった。翌年もまたFA宣言したが、結果は同じだった。

たしかに成績だけを見れば、誘いがあってしかるべきだっただろう。だが、選手の価値とは数字だけではない。とくに中心選手はただ打てばいい、抑えればいいというものではない。チームの鑑、すなわちほかの選手の手本であることが求められる。

グラウンド外での態度も含めて、選手の価値ははかられるのである。その点で彼は物足りないと、他球団の目には映ったようだ。

「人間は自己愛で生きている」と私はよく口にする。誰しも自分がいちばんかわいい。これは自然な感情だ。

「自分はがんばっている」
「よくやった」

そうやって自分をほめてやりたくなる。しかし、いくら本人が思っても、他人も同じように思ってくれるのでなければたんなる自己満足にしかならない。

他人の下した評価こそ正しい

つまり、その人間の評価は他人が決めるのである。人は自分がかわいいから、自分に対する評価はどうしても甘くなる。バイアスがかかっており、適正とはいい難い。他人が下した評価こそ正しいのだ。

自分の評価が正しいと信じ込んでしまえば、自分を甘やかし、低いレベルで妥協する。努力することを放棄し、評価されない原因を「あいつは見る目がない」と、他人のせいにする。それではひがみ根性だけが増幅され、何の成長ももたらさない。

それを避けるためには、評価は他人がするものだときもめいじておく必要がある。そして、「自分はまだまだなのだ」と自戒しなければならない。そういう気持ちで日々を過ごしていれば、おのずと他人の評価も上がるものなのだ。

先の選手は、現実を知ったとき、ショックだったろうし、悔しかったと思う。だが、自分の評価と他人の評価のギャップに気づかされたことで、その後ずいぶんと変わった。

翌年は二軍スタートとなったが、目の色を変えて野球に取り組んだ。個人記録より、チームを優先するようになった。そして、その姿は若い選手にも好影響を与えた。彼を見て、二軍監督が私にいった言葉を憶えている。

「彼もようやく自分がわかってきたようです」