古代の中国では「身体的な特徴」が就職や出世を大きく左右していた。早稲田大学文学学術院の柿沼陽平教授は「漢時代の役所では、イケメンであることが官吏の採用条件にふくまれていた」という――。(第3回)

※本稿は、柿沼陽平『古代中国の24時間 秦漢時代の衣食住から性愛まで』(中公新書)の一部を再構成したものです。

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大都会で生活する人びとの移動手段

道ゆく人びとのようすをみてみよう。戦国時代には、田舎の若者が大都市の邯鄲かんたんにいって都会風の歩き方をまのあたりにし、それを学びきらぬうちにほんらいの歩き方も忘れ、よつんばいで故郷に帰ったという笑い話がある(*1)

どうやら都会の者と田舎の者とでは、歩き方さえも異なるらしい。さしずめパリコレ経験のあるモデルと、筆者の歩き方が異なるようなものであろうか。邯鄲は、秦漢時代にも屈指の大都市として知られるところであり、その大通りを颯爽さっそうと歩く者の情景がありありと目に浮かぶようである。

道ゆく人びとのなかには、徒歩の者もいれば、馬車や牛車に乗る者もいる。当時、馬車は最上級の乗り物であり、牛車はそれにつぐものであった(*2)。日本古代の貴族がもっぱら牛車に乗っているのとは異なり、馬車のほうがハイクラスであった。

皇帝はもちろんのこと、諸侯クラスはだいたい馬車に乗るが、前漢後期以降は諸侯が力を失い、牛車に乗る諸侯もあらわれる(*3)。馬車は二輪であることが多く(*4)、とくに高官の馬車は「朱輪しゅりん」とよばれ、その車輪は朱塗りであった。

一方、商人は差別的な扱いを受けており、たとえお金をもっていたとしても、馬車に乗ることは許されなかった(*5)。ただし、大商人はたいてい役人も兼ねており、役人に袖の下を渡していることも多く、うやむやのまま乗車することもあった。

政府の高官は法律上、高利貸しを営むことはできず、商人の子は官吏になれないはずであるが(*6)、じっさいには商人出身の官吏の例も少なくない。高貴な女性も乗車していることがある。

イケメンとそうでない人との違い

徒歩の者をみてみよう。ここでは男性の顔をみる。遺伝学的に、1万年まえ~5000年まえの中国には、黄河中流域と長江中流域にそれぞれ別系統の集団がいたようであるが、秦漢時代にはすでに交雑がかなりすすんでいた(*7)

春秋時代までは山東半島にヨーロッパ系に連なる人びとの痕跡もあるが、秦漢時代にはそれもなくなり、現代中国人に連なる人びとが圧倒的になってゆく(*8)。そのほとんどが平たい顔で、ごく一部に中央アジアからやってきた彫りの深い人がいる程度である。

男性の顔をのぞきこんでみると、イケメンとそうでない人がいる。当時の人にとってその境目はどこにあるのか。一般には、春秋時代の子都しとや、三国時代の何晏かあん、西晋時代の潘岳はんがくといった人がイケメンとして名を残している。

かれらはマッチョでなく、色黒でもない。むしろ透き通るような白い肌をもち、瞳を輝かせ、美しいヒゲをもった男子であった。伝説的美女の羅敷らふも、みずからの夫を色白美男子(潔白皙けっぱくせき)で、ふさふさのヒゲがあるとのべ、そのイケメンぶりを自慢している(*9)