野田は初当選から18年2カ月で首相に到達した。現行憲法下で首相となった30人の中で歴代9位のスピード出世だが、その間に4つの試練に遭遇した。
第1は、次の96年総選挙での落選である。小選挙区・比例代表並立制による初の選挙で、新進党は重複立候補を禁止したため、小選挙区の千葉4区で戦い、105票差で敗れて議席を失った。泊まり込んで選挙を手伝った鈴木康友が語る。
「民主党候補に食われた。残票整理でひっくり返った。その晩、一緒に冷や酒を飲んだが、声をかけられない。以後、3年半は最低限の生活で、浄財を集めて活動を続けた。途中で船橋市長選の話があり、最後まで迷ったことがあった」
次の総選挙は2000年だった。新進党は2年半前に解党している。野田は党公認獲得で苦労した。江口が明かす。
「野田、長浜の両君がきて、『自民党に行ったら駄目だった。民主党も、熊谷弘さん(当時は民主党幹事長代理。元官房長官)に断られた』と言う。私は2人を連れていって熊谷さんに頼み込み、やっと最後に公認をもらった」
野田は返り咲きを果たす。前掲の『民主の敵』で「当選以来、一貫して『非自民』」と強調しているが、議席回復のためなら何党でも、という融通無碍の現実主義者の一面も併せ持っているようだ。
第2の試練は、2年後の02年9月で、民主党代表選に出て敗退した。三選を目指す鳩山に菅、横路孝弘(現衆議院議長)と野田が挑戦した。当時、衆議院議員だった鈴木が内幕を述懐する。
「熊谷さんが『菅さんと鳩山さんの順繰りでは万年野党になる。新しいリーダーで勝負を』と言うから、『野田さんでしょう』と言ったら、走り始めた。旧民社系は最初、野田支持だったが、前原さんとの一本化が条件だと言う。だが、前原さんが降りない。野田さんは『話し合いの余地がある』と言い続け、期限を超えたため、旧民社は鳩山支持に回った」
野田は鳩山、菅に次いで3位に終わった。決断の遅れが響いた。