さて、東照宮に赴いた例幣使は新しい幣帛を神前に奉献し、去年奉献した幣帛を持ち帰ることになっていた。だが、それで話は終わらない。古い幣帛を細かく切り刻み、諸大名から庶民に至るまで希望者に配っている。

もちろん、無料ではない。「初穂料」はしっかり受け取る。元手は掛かっていないため、配った分だけ、帰路は懐が重くなった。

こうした役得により、一度でも例幣使に任命されると財産を作ることが可能だったのである。

庶民にとっては大迷惑なサイドビジネス

日光例幣使は、人足として徴用された農民、宿所の本陣そして道筋の諸藩にとり、幕府や朝廷の権威を傘に着る迷惑この上ない存在だった。

だが、見方を変えると、それほど公家は生活苦に喘いでいた。公家のトップである摂関家の近衛家でさえ、所領は中級旗本クラスの三千石に届かない。他の公家などは推して知るべしだ。

安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)

所領から徴収する年貢だけでは生計を立てられなかったのが実情で、サイドビジネスで糊口ここうを凌いでいた。和歌や書道など伝統文化の家元となることで、その免許料を貴重な収入源としたのである。だから、多大な役得が期待できる例幣使への希望が殺到したのも無理はなかった。

公家だけではない。禁裏御料きんりごりょうと呼ばれた皇室の所領にしても三万石に過ぎず、その経済力は小大名レベルだった。幕府はもとより、諸藩と比べても朝廷の経済力は微々たるものに過ぎない。

しかし、そうは言っても天皇の権威は幕府にとって必要不可欠だった。そもそも、将軍にとり天皇は任命権者であり、天皇から大政を委任されることで幕府は存在し得た。

天皇つまり朝廷あっての幕府であり将軍だった。朝廷から箔付けされることが幕府権力の源泉となった。それゆえ、家康を祀る東照宮への例幣使の派遣を朝廷に求め続ける。

こうした幕府側の事情を背景に、日光には公家が毎年派遣された。その裏では、例幣使や御供の者による所行に泣かされる者が毎年出ていたのである。

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