母と弟がいなくなったとしたら…

消えてなくなりたいほどの悲しみの中でも、身体は生きようとする。

そういう日々でも、なんとかやってこれたのは、母と弟がいたからだ。父の死を乗り越えたのではない。正面を向いてスクラムを組み、豪雨と吹雪に耐え、力つきそうになれば互いをゆり動かし、飯をわけあい、たまに冗談もいい、とにかく悪天候が止むのを待つ。気がついたら、晴れていた。わたしたちが送ってきたのはたぶん、そういう時間だ。

悲しみがカルピスのごとくうすまるまで、さみしい時間をじっと過ごせる仲間がいたというだけの話だ。これは、他人では絶対につとまらない。たとえファンが100万人いたとしても、彼らとは、ずっと一緒に過ごすことはできない。

母と弟がいなくなったとしたら、もう、わたしにその不在を乗り越えるだけの体力も気力もない。だって父のときより人数が多いし、思い出も多いし。

はい、無理。ぜったい無理。

涙がぼたぼた落ちて、書類のはしがじわっとにじんでしわになった。

スーパーファミコンのゲームがバグったら、セーブもせずカセットを「オラァッ!」と抜くように、わたしも人生のカセットを抜きたい。星のカービィスーパーデラックスなら確実にセーブデータ飛んでる勢いで。

そこで、プツッと、終えたい。

未来のことを決めるのが苦手だ

そもそもわたしは、未来のことを決めるのが苦手なのだ。

いままでも1年から3年ごとに、人生に波乱が巻き起こった。家族は死ぬし、歩けなくなるし、川べりで意識を失うし、メンタルはダウンするし。全部、自分じゃどうしようもなかった。

ばかデカいにもほどがあるどうしようもないことを、急ハンドルでさけて、まったく想定になかった道を進み、なんとかその道中の景色を楽しむ。なんか、そういう、計画性とはほど遠い過去ばかりだ。

未来を決めても、それが急ハンドルをきるときにふと浮かんで邪魔をしてきたらと思うとこわいし、どうせ状況が変わって達成できないのだと思うとくやしい。だからわたしの未来にはいつも、“あそび”がある。ハンドルをまわすだけの、あそびが。

写真=iStock.com/kumikomini
※写真はイメージです

でもさ、人生のカセット、自分で抜くわけにいかないじゃん。