「疑う」ことが教育における核

そしてもう一人、大学2年のときに科学哲学の持丸悦朗先生の「経済学方法論」という教養ゼミを履修しました。この授業も毎回楽しみに受けていました。内容は、科学哲学の理論から経済学における方法論を読み解いていくというものです。私にとっては面白いのですが、毎回とにかく話が難しいので、最初は十数人いた受講生が次々と脱落して最後は3人になって、先生とほぼ1対1で議論していました。

この3人の先生にはいまでも感謝しています。いっぽうでそれ以外の授業にはほとんど出ずに、たいていは図書館で本を読んで勉強していました。

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北原先生の薫陶のおかげで、「疑う」ことが教育における核であると、私も思っています。それは「健全な懐疑心を持て」ということです。疑うにもいろいろな意味がありますが、猜疑心さいぎしんではなく、懐疑心を持つことが大事なのだと思います。猜疑心では友だちをなくしますからね。東工大の学生にも、あらゆることに対して、鵜呑みにせず、その前提に対して健全な懐疑心をもってあたれと、言っています。

空気を読むこと、共感することが重視される日本社会

では疑うという姿勢は、どのように養うことができるのか。そこは、とくに現在の状況を考えると難しいものがあります。疑うことは反駁することであり反抗的な精神とともにあるものです。

いっぽう近年の日本社会では、空気を読むこと、共感することが、能力として重視され、同調圧力は相変わらず強い。そんな社会の中で、いったいどうやったら反抗精神や批判精神の大切さを自覚できるようになるのか、悩ましい問題です。

東工大に着任して早々の入学式で目にした光景は、その難しさを印象づけるものでした。大学の入学式に両親、そして祖父母も出席し、東工大のシンボルである時計台の前で学生本人を囲んで記念撮影をしているではありませんか。見ると、撮影の順番を待つ長蛇の列ができている。わが子、わが孫が、晴れて東工大に入学したことを誇らしく喜ばしく思う気持ちはわかりますが、私の学生時代には、大学の入学式に親が来るなど考えられないことでした。携帯電話で撮った写真をすぐさまSNSに投稿して満足そうにしている新入学生たちの姿に、私はショックを受けました。