国民に受け入れられなかった「12のゼロ」
ところが、野党はこれまで「消えた年金問題」で成功したようなピンポイントでの攻め込みに軸足を置いてきた。立憲民主党は2017年の結党間もない衆院選において、護憲派やスキャンダルを厭う層からかなりの同情・共感票を得ることができた。
しかし、希望の党は注目度のわりにさしたる議席数を確保できず、イメージ戦略だけでは日本の有権者はついてこないことを白日の下に晒した。多くの報道では、小池百合子氏の「排除いたします」発言が失速のカギとなったとされているが、私の分析は異なる。
実際には、小池氏の得意とするイメージ戦略だけでは大義がもたなかったことが失速の原因だからだ。希望の党が掲げた消費増税先送り、原発ゼロ、憲法改正の組み合わせと、満員電車、花粉症、食品ロスなどの「12のゼロ」は国民に受け入れられなかった。
日本人の変化を望む気持ちを吸収するためには、虎視眈々と政権を窺う政策集団としてのたわめられた力やエネルギー、そして時代がその人たちとともにあるという大義が必要である。東京都知事選の重みは、やはり政権選択選挙が持つ重みとは違うし、個人を選ぶ選挙であるという点が大きな違いだ。
「悪代官」的な敵を倒し、新しい風をもたらす颯爽とした小池百合子氏のイメージだけでは、政権選択選挙に勝利することはできないのである。現に、排除発言前から希望の党の人気は失速し始めていた。
政権選択の選挙となった3つの事例
2019年の参院選では、野党は年金問題に焦点を当てようとしたが、熱心な報道にもかかわらず有権者はさほど反応しなかった。
むしろ選挙活動が活況を呈したのは一部のれいわ新選組(以後れいわ)支持者だが、ちゃぶ台返し型の現状打破志向がごく一部の革新勢力にしか訴求力を持たないことは、選挙結果を見れば明らかである。
しかし、有権者は一体どのようにして、単なる政局と政権選択を左右する論点とを区別するのだろうか。参考にできる近年の例は三つ存在する。
ひとつは2005年の郵政選挙。二つ目は先ほども出てきた2009年の民主党政権誕生、三つ目は日本維新の会の大阪土着化である。この三つの事例は、国民に改革の負担を強いる要素と、夢と希望を与える要素との配分が優れていたということができる。
よく、小泉政権では「痛みを伴う改革」が支持されたと言われるが、これを文字通り受け取ると間違う危険がある。社会が自己改革に賛同するハードルは高いからである。郵政解散の場合には「抵抗勢力」を跳ね返すため、あえての民意を問う解散総選挙、痛みを伴う改革という二つがあいまって、有権者と小泉純一郎氏の一体性を高めた。
勧善懲悪は分かりやすい。痛みは、国民自らが負う負担というよりも「庶民のまっとうな感覚」を政治に反映するためのごたごたや不都合を甘受するという意味合いに取られたのではないだろうか。
要は、変化を嫌う国民が変化を受け入れるには、それにより生み出されるよほどの価値が提示されない限り、難しいということだ。その点、政治が既得権にメスを入れることによって成長するというストーリーは十分に希望を与えるものであり、日本人の改革に関する自画像にマッチした。