「お母さんがもう長くないから」と言ったが兄は病院へ来なかった
2009年。79歳になった母親は病院を一人で抜け出し、病院の敷地外で転倒しているところを発見された。
病院からは「見守り不行き届き」について謝罪があったが、パーキンソン病薬のせいで動けるようになったと考えられたため、減薬。母親が動けなくなってきた頃、病室に鍵がかかる閉鎖病棟への転院の話が出た。
白石さん(当時54歳)は、母親が迷惑をかけた以上、断ることはできないと思い、承諾する。
閉鎖病棟に移ると、いきなりオムツを当てられ、母親が「トイレに行きたい」と言っても、「オムツにしていいよ」と言われるだけ。白石さんは、転院を承諾したことを激しく後悔した。
程なくして母親は寝たきりになり、一般病棟の2人部屋へ移った。白石さんが行くと、表情のない顔で横たわっている2人の姿に、一瞬どちらが母親かわからなかった。
2010年3月の朝、主治医から電話があり、白石さんは病院へ向かった。
母親は酸素吸入を受けており、白石さんを見ると微かに頷いた。白石さんは母親の手を握り続け、夕方帰宅。その日の夜、兄に電話するも繋がらず、メールも戻ってきてしまう。白石さんは、兄嫁に連絡する気にはなれなかった。
翌日、地下街を歩いていると、偶然兄に会った。白石さんが「お母さんがもう長くないから病院へ行ってあげて」と言うと、兄は電話番号を変えたことを謝り、新しい番号とメールアドレスを教えて去った。
しかし兄は来なかった。代わりに兄嫁が来て、「お義母さん、元気そうだったよ」と兄に伝えていた。
それから数日後、白石さんが母親の病院へ行く途中で、電話がかかってきた。
「お母さんが危篤です。すぐに来てください!」
白石さんは兄と兄嫁に電話をし、病院へ到着。呼吸が弱々しくなっていく母親を、結局最期まで一人で見送った。享年79だった。
母親の最期を見届けた後、重症筋無力症やステージIIのがんに罹患
母親が亡くなってから10年後、2020年に入籍した白石さんは今年66歳、再婚した夫は60歳になる。
「母が初めて入院した当時、私はどんどん悪くなっていく母の姿に、かなり追い詰められていました。あの時、ケアマネさんやヘルパーさんに言われて母を入院させなかったら、私は母を殺めて、自分の命も絶っていたかもしれません。そんな考えが何度も頭をよぎりました。相談できるケアマネさんやヘルパーさん、そしてげんきの散歩仲間がいてくれて、的確なアドバイスや対処をしてくれたのが、私を救ったのだと思います」
そう感謝の言葉を口にする白石さんだが、入籍前は自分の体調がおかしくなり、次々と病魔に侵された。
まず、2019年の4月。白石さんは「最近疲れやすいな」と思っていたら、突然両腕が今まで経験したことがないようなだるさに見舞われた。
近所の病院を受診したが治らず、8月末に市内の大きな病院で内臓のCTを撮ることに。
9月に結果を聞きに行くと、「前縦隔(縦隔:胸の中心にある左右の肺の間にある空間)に腫瘍性病変の疑いがあり」と言われ、専門の病院を紹介される。
紹介された大学病院へ行くと、「重症筋無力症」と診断。治療のために10月に入院し、11月には胸腺腫(リンパ球を作っている胸腺の腫瘍)の手術を受けた。胸腺腫は悪性腫瘍でステージII。主治医は「手術で見える範囲は取り除いた」と説明した。
重症筋無力症は、指定難病のひとつだが、進行性の病気ではなく、服薬しながら上手く付き合って行く病気だ。治療のために免疫抑制剤を服用しているので、コロナに感染しないよう、マスク必須で、消毒手洗いに気をつけて過ごしている。
「2018年に(前夫との間にできた)一人息子は結婚し、翌年孫が産まれました。もう何も望むことはありません。残りの人生は再婚した夫(60歳)と二人、穏やかに過ごしたい。人に迷惑をかけないように最期を迎えたいと思います」
白石さん(現在66歳)は、11年前、母親が他界するまでの6年間の介護を振り返りこう語る。
「自分が潰されないよう、一生懸命になり過ぎず、人に頼れるところは頼ることが大切。特に、相談相手や話を聞いてくれる人の存在は大事だと思います」
介護をしている人には、自分が楽することを後ろめたく感じる人が少なくない。子どもには親を介護する義務はあるかもしれないが、楽をしてはいけないわけではないし、ましてや、苦しまなくてはならないわけではない。
介護当事者もそうでない人も、まずはそうした基本的な心構えを忘れてはならないと思う。