「人の身体ってこんな風になっているのか」

勉強は得意だった。一帯で一番の進学校である盛岡第一高校から、東北大学薬学部に進んだ。

「漠然と博士、研究者になりたいって考えていたんです。でも、どういう研究をしていいのか分からなかった。生物も化学も物理も勉強できるから、とりあえず薬学部に入ってみたんです。勉強しているうちに自分が興味を持っているのは生物系、基礎医学だなと気がついたんです。そこで、生物系の本場である医学部に行こうと思いました」

この頃、他学部から医学部への転部は稀だった。薬学部を卒業、国家試験に合格した後、1年間浪人生活を送り、山形大学医学部に合格した。

医学部では基礎医学――人体の構造、機能についての学問に夢中になった。

「人の身体ってこんな風になっているのかって紐解いていくのが楽しかった。良くできているんだなという感動することばかりでした。研究の方に行くつもりだったんですが、当時の病理学の教授が、病理とは基礎(医学)と(患者を診察する)臨床(医学)の橋渡しをする学問なんだよという話をされたんです。折角、医学部に入ったのに、臨床的なものと繋がりがなくなるのもつまらないなと思って、病理に進むことにしました」

病理学とは、疾病の形態と機能などを総合的に研究する学問を指す。そして大学6年生で結婚していた野坂は、卒業後の研修先に夫の地元である、とりだい病院を選んだ。2006年4月のことだった。そこから米子に居つづけている。

「鳥大の良さ? 出身大学での差別がないことですね。(他大学出身は)“外様”扱いされるなんて聞いたことがありましたが、鳥大では全くないです」

女性患者への感情移入と病理医の責任の間で

野坂の専門は病理診断科である。

撮影=中村治
「机の周りに飾られている、好きな漫画のフィギュアたちが仕事中、最大の癒しである」

患者の身体から採取した組織、細胞を薄く削ったガラス標本を顕微鏡で観察して病名を確定させる。確定診断とも呼ばれる。

「がんの確定診断は病理(診断科)しかできません。九割以上、がんかそうではないかの判断は簡単です。形が整っていれば大丈夫だなと。がんというのは、一言で言うと細胞、組織が“異型”なんです。細胞一つひとつの形もおかしいし、並び方もぐちゃぐちゃになっている。ぐちゃっとなっている場合は、倍率を上げて(見て)みる」

標本は青色、あるいはピンク色の染料で色づけされており、組織の形が見えやすくなっている。野坂たちが普段使っているのは、400倍拡大の顕微鏡である。100倍ほどの拡大で、判断がつくものがほとんどだ。「ぐちゃっと」なっている場合、倍率を400倍に上げる。

「ちょっとだけ変でも、がんになりようがないというのもある。異型がやや強めに出ている場合は、今はがんではないですけど、念のためフォローアップ(経過観察)してくださいというコメントを書きます」

さっと顕微鏡を覗き、レポートを書く場合がほとんどだが、一時間以上、腕組みを続けることもある。

「大学病院ですから、難しい症例が集まってきます。見た事のない細胞の形、見たことのない並びをしている、みたいな。見慣れないものが出たら、すぐに教科書を引っ張ってきて調べる。それでも分からないことがある。周囲の人に意見を求めたり、(標本の)量が少ないので取り直してもらうこともあります。それでも分からない場合にはそれぞれの信頼できる専門家に送るしかない」

ごく一部に限って、ではあるが、がんかそうでないかの線引きには、熟練した専門医の中でも判断が割れることがあるのだという。自分の中の基準を動かさないようにという恩師の教えを野坂は今も守っている。

ただし、思索、検討の時間が与えられない場合もある。手術中、予測していなかった所見を発見した場合、あるいは切除範囲を決定するための術中迅速検査だ。

「判定によって手術のやり方が変わってしまうこともあります。乳がんならば、乳腺に一番近いリンパ節を採取します。そこにがんがなければ、それで終わりなんですけれど、がんがあった場合、脇の下のリンパ節をすべて取らなくてはならない。そうすると腕がリンパ浮腫になって皮が厚くなって、女性としては悲しい状態になってしまう」

同じ女性だからこそ、術後の苦しみが分かる。とはいえ、がんが転移していた場合、切除しなければ、命に関わる。病理医として働き始めてしばらくは、その責任の重さで潰されそうになった。

「最初の頃は、リンパ節(にがんの)転移はありません、の一言を電話するだけで、緊張してだらだら汗をかいていました。怖かったんです」