「たたかれる側の象徴」として前面に立ってきた
実際に、擁護派の方々の中で、大多数は「沈黙派」である。私が電話で話す限りは「森会長は余人をもって代えがたい」と語るも、公の場で語る事はない。私は、この様子に先行きの不安を抱えている。これまで東京大会はザハ案国立競技場建設問題、小池知事による五輪会場計画変更提案など、五輪をめぐっての多くの課題に向き合ってきた。その都度、たたかれる側の象徴として前面に立ってきたのが森会長だ。その後ろには、大多数の関係者がいた。
私はその都度、「筋の通っている」「正論」で事に当たってきた結果、森会長と同じ立ち位置で、良い結果も悪い結果も乗り越えてきたのだ。その時も、いつも表で森会長サイドから意見を述べる人がほとんどいなかった。それ故、私もメディアに登場しては、多くの国民の皆さまから大批判のメールやDMを頂戴した。
小池都政下での3会場見直しも世論は小池知事側に向いていたが、結局は元のままで収まった。当時も、小池知事側が示した案も既に、森会長の下で検証した上で決定した経緯を知っている人たちが「沈黙派」になってしまった。
つまり、何を言いたいかというと、東京大会開催の最大局面をこれから迎えるに当たって、大きな懸念があるということだ。「やるも」「やらないも」「どんな形でも」相当に追い詰められた状況になるのが東京大会だ。開催反対論者は「即刻中止」を主張する。そうなれば、IOCから東京が受け取る860億円の分担金が無くなるし、見込んでいたスポンサー収入も満額はあり得ない。ところが、支出面をみると大規模な大会整備は終わっているわけで、入りが減っても出は減らない。そういう議論はないがしろにされている。
私も当然、コロナ禍で「何を考えているんだ!!」と有権者から怒りをぶつけられる事も多々ある。まずは日本国民の皆さまの「安全安心」は担保された上での準備であるのは当然であるのに、その前提は報じられない。いわんや、開催方向をや。
森会長の状況は弁慶の立ち往生のようだ
私はこういった究極の判断、局面を迎える時に、誰が矢面に立てるのだろうかと考えている。これまで、多くの与野党政治家やスポーツ界関係者が森会長を「弾よけ」にしてさまざまな事業を進めてきた。それにもかかわらず、その森会長が苦境に立たされている場面で誰も表に出てこない。
このフワッとした世の雰囲気に、自分では何もやらない方ばかりの社会風潮。マスコミも一方通行な批判しかしない社会では、常にフワッとした空気に流されるだけで、私は本質的な日本社会を変えられないのではないかと危惧する。
たとえ、森会長が大きな判断をされても、こういうズルい人たちがいては開催是非の判断という目の前に迫る最大局面を乗り越えられないと考えている。イメージ的には、弁慶の立ち往生のように森会長だけ無数の矢を受けて、安全な場所にい続けた方々に矢を受ける覚悟があると思えない。