「個人的なことは政治的なことである」
自分の怒りが個人的なものではなく、あくまで社会的なものであること、そして自分のためだけではなく、女性全体のための怒りである、と主張することができる。
女性の社会活動家の中には、自分たちの団体や活動が批判された場合、「自分が傷ついた」とは決して言わず、「当事者の女性たちが傷ついた」「被害者の少女たちが傷ついた」と主語を変換する人もいる。
こうした主語の全体化は、客観的に見ればご都合主義で恣意的な振る舞いに思えるかもしれない。しかし、社会問題の解決を目指す運動や事業の過程では、主語を意識して全体化していくことが欠かせない。
フェミニズムには、「個人的なことは政治的なことである」という命題(※2)がある。一見私的な悩み、プライベートな領域の問題だと思われている事柄の中に、実は社会的な差別や暴力、搾取の問題が隠れている、という考え方だ。
※2:男女の政治的平等を求めた第一波フェミニズムに続いて、男女の社会的平等を求めた第二波フェミニズムにおいて用いられた命題である。この命題に対して、マスキュリストは「個人的なことは、あくまで個人的なことにすぎない」と批判する。
被害者が全体化されれば、加害者もまた全体化される
差別や暴力の被害者が「これは自分だけの問題だから」と考えて一人で苦しまないためにも、「あなたの苦しみは、私の苦しみである」「あなたに対する差別は、私たち全員に対する差別である」といった言い回しで仲間を増やし、連帯していく必要がある。
その一方で、主語の全体化は、個人や問題の複雑性や多様性を捨象してしまう。被害者が全体化されれば、加害者もまた全体化される。結果として、事件とは無関係な相手や集団を「加害者」呼ばわりしてしまう事故が多発する。本来であれば闘う必要のない相手や集団を「加害者」「性差別者」として認定・攻撃してしまうことで、問題の解決をより困難にしてしまう場合もある。
主語の全体化は、あくまで被害者の痛みを和らげるため、そして社会問題を解決するための便宜上の手段にすぎない。それ自体が目的や習慣になってしまうと、ただ「男が許せない」「女性差別が許せない」という怒りを都合よくたぎらせるために主語を全体化する、という本末転倒な状態になってしまう。