まず第一に、他人を頼りにせず、自分できちんと生活していく。その先に余裕があるなら、弱い者を助けよと言います。貯えのない人や職を失った人が生活に困っていたら、見返りを求めずに助けなければいけない。コロナ禍を生き抜くために、死活的に重要な精神です。国民に一律10万円を配ったり、零細企業や個人事業主に給付金を支給するのは、聖書の考え方に沿っているのです。続いて、
〔また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました〕
日本のことわざで言う「情けは人のためならず」。他人に親切にすれば、いつか自分に返ってくるという教訓です。「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉がイエスの発言だという証拠はないのですが、キリスト教徒の人生観が端的に表されています。
あなたが良い教育を受けたりビジネスで成功したのは、神さまから与えられたおかげであって、あなた自身の力ではない。勘違いせず、再分配しなさい。その実践によって他人から尊敬されるようになり、自分にも幸せが返ってくる、というわけです。
さらに言うなら、他人に何かを与えるには、与えるに値するものを持っていなければならない。そうしたものを身につけるため、神さまから与えられた能力を十分に発揮し、努力しなければならない、とパウロは説いています。
現代のキリスト教は、大きく3つに分かれる
木村花さんや検察庁法改正案に向かって爆発した人々のストレスは、キリスト教的に言うと「罪」であり、仏教的に言えば「業」です。これを解消することも、宗教の大きなテーマです。
仏教の考え方は、基本的に「因果論」です。原因があって、結果がある。自分の行いが「業」となって積み重なり、幸や不幸として表れるのが「縁起」です。つまり、いまを変えれば未来の運命も変えることができると考えます。
これに対してキリスト教は、「決定論」です。天国へ行ける人、行けない人は神によって決められている。人間は運命を変えられないのだから、すべてを神に委ねるほかないという考え方です。「だったら、何もしなくても一緒じゃないか」と言う人がいますが、「何もしなくても一緒だと思うこと自体が、選ばれない側にいるということだ」という思考になるのです。
どちらが正しいという話ではありませんが、現在のように困難な状況では、キリスト教的な決定論を信じることで救いが得られるかもしれません。
現代のキリスト教は、大きく3つに分かれます。正教会(全世界の信者数は約2億人)、カトリック(約11億人)、プロテスタント(約5億人)です。
正教会の特徴は、神秘的であることです。人は聖霊の力によって神になれるし、悪魔の存在を重視します。ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に表れる世界観です。
カトリックは、天国に入る鍵を持つローマ教皇を頂点に、組織を重視します。教会に所属していれば、確実に救われるという考え方です。聖書を信仰するだけでは不十分で、正しい行為も求められます。
プロテスタントは、神の下ではみな平等だと捉え、聖書に対する信仰が重視されます。信仰があれば自ずと行為に表れるはずなので、信仰と行為を分けるカトリックの考えは間違いだとみなします。
プロテスタントには絶対に正しいとする立場がありませんから、実にたくさんの教派が存在します。人には決められた運命などなく、清い心で回心して信仰と祈りを重ねることが重要だと説きます。
私が現在所属しているのは会衆派の教会ですが、私自身には長老派(カルヴァン派)の、救われる者だけでなく滅びる者も神によってあらかじめ決められているという「二重予定説」のほうがしっくりきます。バプテスト派やルター派などは、メソジスト派と長老派の中間に位置すると考えていいでしょう。