生まれ持ったステータスで「仕分け」ていないか

筆者は米国で法律家を生業としていたこともあり、「区別」と「差別」について米国最高裁の考え方に注目する。米国は英国から独立したという自由主義・人権主義の社会的ダイナミズムと黒人奴隷という歴史をあわせもつ。このため人種差別・性差別などの「壁」を法廷で一貫して争ってきた。

そんな米国最高裁の判例は、どこまでが合憲の「区別」で、どこからが違憲の「差別」なのかを深く議論している。その積み重ねで確立されてきた判断基準は、あらゆるシチュエーションでの差別問題で参考になる。

かいつまんでいえば、米国最高裁は対象事件での「仕分けの性質」を問うことにした。具体的には「黒人ならこれはダメとか、女性ならあれはダメ」など、自分ではどうすることもできない、生まれ持ったステータスをもってして、特定の権利を受ける人・受けられない人を「仕分けていないか」を問うのである。

米国最高裁の判断基準

裁判所は差別を審理する際、「性犯罪歴がある人は児童教育従事禁止」「運転免許を持ってないなら公共バス運転手になれない」など、個人の自由意志にもとづく「行為」での仕分けなら、そのルールが施行された民主的立法政策や手続きをできるだけ尊重する。

他方で、「人種」や「性別」など、生まれつきの、当の本人がどうしようもないステータスで仕分けがされていると判断された場合、米国最高裁はそれをとても高いハードルで吟味する。すなわち、その仕分けの「目的」は重大且かつ正当なのか、そして仕分けの「基準」は十分テーラーメイド(吟味調整)されているかを問うのである。

その結果、「あえて人を『人種』で仕分けるほどその州法の目的は重要ではない。むしろ、根底にある真の目的は許されない差別である」と認められる場合は、合衆国憲法の条文に照らし合わせて違憲判断を下すのだ。