満鉄幹部は30代 経歴より「未来性」で
「地位が人をつくる」という言葉がある。与えられた環境が、思わぬ形でその人の能力を引き出すことがある。後藤にはそのことをよく自覚していた節がある。
出身地は現在の岩手県奥州市。名門武士だった留守家家臣、後藤実崇の長男として生まれた。奥羽列藩同盟に参加して戊辰戦争に敗れた後は士族の地位を失い、貧困に喘いだ。苦学の後に医者となると、すぐに頭角を現す。25歳で愛知県医学校(現名古屋大学医学部)の病院長になり、26歳で内務省衛生局に転身。ドイツへの私費留学を経て、36歳で衛生局長へ。どんどん出世した。
だが37歳のとき、「相馬事件」に巻き込まれる。結局は無罪となるが、半年間の収監の末に失職。野に下った後、陸軍次官だった児玉源太郎に見出され、日清戦争の帰還軍人の検疫を依頼される。後藤は不眠不休の指揮で22万人の検疫を成功させ、衛生局長に復帰。台湾総督となった児玉に呼ばれ、41歳で台湾総督府の民政局長となる。児玉はその後、陸軍大臣などを兼任し活動の場を東京に移したため、後藤は5年半にわたり台湾統治の事実上のトップを務めた。
無罪とはいえ、一時は「犯罪者」とされた人間に大役を任せた児玉の果断に、後藤は応えた。そうした自身の経験が活きたのか、後藤もまた過去の経歴ではなく、「未来性」で人を採った。台湾統治時には日本初の農学博士だった新渡戸稲造をアメリカから招聘。50歳で満鉄総裁となったときには、中村是公や前田多門をはじめ幹部のほとんどを30代以下で固め、優秀な人材を育てた。中村はのちに満鉄総裁、東京市長などを歴任。前田は文部大臣のほか東京通信工業(現ソニー)の初代社長を務めている。
後藤はよく知らない人物でも「この男なら務まるのではないか」と踏んだら、躊躇なく抜擢した。もちろん失敗することもあった。だが失敗例のマイナスよりも、成功例のメリットを評価した。後藤の口癖は「一に人、二に人、三に人」。「地位が人をつくる」ということを考えれば、組織運営には抜擢人事が不可欠だと考えていたのだろう。