口をついて出てきた言葉は「指を差すんじゃない」
(世の中にはいろいろな人がいてね)
(片足がなくても同じ人間なんだよ)
どのような表現を使ったところで、どこか偽善的で上滑りな言葉になってしまう気がする。結局、私の口をついて出てきたのは、
「指を差すんじゃない」
というひと言だった。
これは幼い頃に親からよくいわれた言葉だ。障がい者を指さしたり、ジロジロ眺めたりしてはいけない。黙って目をそらすことこそ思いやりだ……。
私が自然に抱いてしまうこうした感覚は、おそらく多くの日本人に共通のものだろう。だからこそ、この日の駒沢陸上競技場のスタンドが閑散としていたように、パラスポーツの大会は多くの観客を集めることが難しい。
なぜならそこでは、“黙って目をそらさなくてはいけない人びと”が集まって競技をしているのだ。観客は観戦しながら、「障がい者とどう向き合えばいいのか」という難題に直面し続けることになる。それは、あまり居心地のいいものではないだろう。
他者の苦しみを取材して、自身の幸福を確かめる行為
もうひとつ、『Voice』誌に連載しているあいだじゅう、筆者の頭を占領していた問題がある。
「パラアスリートの肖像」では、パラアスリートのスポーツ選手としての側面よりも、むしろひとりの障がい者としての側面を多く取材し、誌面の多くをそれに割いてきたのだが、取材を重ねながらいつも頭にあったのが、これは単なる「プライバシーののぞき見」なのではないかという疑念だった。
不幸にして障がいを負ってしまった人の苦しみ、家族の苦悩、支える人びとの苦闘。そうした他者の苦しみを取材して文章にすることによって、自分自身の幸福を確かめる。俗に「人の不幸は蜜の味」と言うが、自分のやっていることはそんな卑しい行為ではないのか……。