大勝軒誕生のきっかけ荻窪「丸長」創業メンバー5人も山ノ内町出身
もうひとつ、背中を押すものがある。それは大勝軒が誕生するきっかけとなった「丸長」の創業メンバー5人も山ノ内町出身だということだ。
戦後間もない1947年(昭和22)に、都内の荻窪で5人が「丸長」を開店し、4人が「丸信」「栄楽」「大勝軒」「栄龍軒」として独立。それぞれ。のれん分け店を増やしつつ、“丸長のれん会”を結成し、グループの絆を維持してきた。
ちなみに、山岸氏が働き、まかないとして食べていたつけそば(つけ麺)は、中野と東池袋、代々木上原大勝軒でメニュー化され、その後、丸長各店にひろがっていった。
山岸氏の死後、分裂した東池袋大勝軒グループの中で、田内川さんは『味を守る会』を結成し、山岸氏のルーツである丸長のれん会に加盟している。山岸氏の故郷から声をかけられ、それに応えようとすることには、丸長のれん会として地元に恩返しする気持ちも込められているように筆者は感じた。
そう考えると、今年6月に開催されたイベントが成功した後、山ノ内町から本格的な出店を求められるのは自然な流れだったのかもしれない。
町にしてみれば、単に有名店を誘致するという話ではないのだ。そこには、つけ麺という大ヒット商品を発明して世に広めた、丸長ならびに山岸氏へのリスペクトと、ぜひとも町おこしの目玉にしたいという狙いがある。出店を真剣に考える動機がどちら側にもあるわけだ。
大勝軒の門を叩いた「海産物問屋の女性」が店長
夏には店の場所を決めるべく視察に行き、もともとラーメン店だったが3シーズン営業されていなかった志賀一井ホテルの空き物件を借りることになった。
ホテル側の好意で家賃は安いが、新たにドアを設置するなど新たな投資が必要だが、田内川さんの決断は早かった。
「うちで修行中の青沼さつきさんに、のれん分けのような形で任せてみようと思うんですよね」
青沼さんは、中華に欠かせないナルトや海産物を扱う問屋をやっているが、店舗営業に興味を持ち、大勝軒の門を叩いた人。彼女が店長となり、スタッフを一人雇い入れれば調理はできる。フロアは、足りなければアルバイトに入ってもらえば回せるだろう。
出店の話が正式に決まると、町では道の駅で販売を計画し始めるなど、動きを早めた。秋には内装工事の打ち合わせをし、12月中旬に開業することも決定した。