特効薬の開発後も隔離政策は続いた

似島の陸軍検疫所は、45年8月には広島で被爆した1万人とも言われる市民を収容している。「外」からの患者を隔離するための施設が、敗戦の直前に図らずも「内」からの被爆者を収容するための野戦病院に転用されたのだ。検疫所は戦後に規模を縮小し、58年7月には完全に閉鎖された。

一方、長島愛生園は、戦後も戦前と同様の役割を果たし続ける。戦時中に米国で特効薬プロミンが開発され、ハンセン病が不治の病でなくなったにもかかわらず、国の隔離政策が改まることはなかったからである。

その背景には、皇室からお墨付きを得た光田の「衛生」思想があった。一見、近代的な装いをまとったその思想は、皇室を「浄」のシンボルと見なす前近代以来の思想と結びつくことで、揺るぎないものとなった。

皇室の「負の歴史」を地形から読み解く

現上皇は、結婚した翌年の1960(昭和35)年8月6日に皇太子として似島を訪れている。2016年8月8日の「おことば」で「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました」と自ら述べたところの「島々への旅」は、まさにこの似島から始まったのである。

原武史『地形の思想史』(KADOKAWA)

また天皇時代にあたる2005年10月23日には、現上皇后とともに歴代の天皇として初めて長島を訪れ、愛生園で暮らす26人に声をかけている。彼らはもはや患者ではなかった。帰るべきところがないという理由から、完治してもなお愛生園で生活している人々だったからだ。

現上皇にとって似島を訪れることは、戦争という、自らの父が深く関わった過去の歴史と向き合うことを意味した。一方、長島を訪れることは、ハンセン病という、自らの祖母が深く関わった過去の歴史と向き合うことを意味したはずである。どちらも皇室にとっては負の歴史といえる。

その歴史を「島」という地形から探るべく、私もまたKADOKAWAの小林順『本の旅人』編集長と、担当編集者の岸山征寛さんとともに鉄道とタクシー、フェリーを乗り継いで二つの島を訪れることにした。(続く)

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