無駄話をしない「ノイズ」のない社会

たとえば、古くからある商店街であれば、何代もそこに店をかまえる人たちがいます。そこではいろいろな会話が交わされます。たとえば豆腐屋さんだったら、久しぶりにお使いで買いに来た高校生の女の子に、「この前、あなたの同級生が豆腐を買いにきたんだよ。みんな大きくなったわね」とか、「この前おたくの旦那が、私たちが仕事を始めた早朝にヘロッヘロに酔っ払って店の前を通り過ぎたけど、大丈夫だった?」とか、なにげない話が交わされるかもしれません。

目的は豆腐を買うために店に足を運んでいるのですが、こういう路面店で交わされる常連客との会話の大抵半分以上は無駄話、世間話です。でも、それが不快ではなく、息抜きになったりして、みな笑顔で帰っていきます。

しかし、神戸のその新興住宅地では、そうした無駄な場所、無駄な話をしているような風景をほとんど目にしませんでした。いわば「ノイズ」の無さを実感したのです。あのニュータウンを歩きながら、何もないところから街を作れと言われると、人間というのはこれほどノイズのない街をつくってしまうものか、と愕然がくぜんとしたのをいまも覚えています。

ノイズのない社会はいかに生きづらいか

これだけ無駄を排除した街で、酒鬼薔薇はいったいどうやって少年の首を切って殺してしまったのか。その場所は、区画開発され尽くしたニュータウンの中で、唯一開発されていない山中の“未開の地”だったのです。

単一機能の空間、ノイズのない社会がいかに人間にとって生きづらいかを、つくづく実感しました。

ノイズで思い出すのは、劇作家平田オリザさんの言葉です。彼は、ロボットと一緒に演劇をつくったときにこう感じたそうです。

「(ロボットに)人間の持つ逡巡しゅんじゅん、ノイズを入れるのが難しい」

ロボットは効率的に動くけれども、それだけでは人間らしくない。生産的な行為だけではない。目の動き、表情、手のちょっとした動きなどに、その瞬間瞬間の“感情”が表現される。そうしたノイズこそが人間らしさだということなのでしょう。

神戸の事件から4半世紀が経とうとしていますが、あの年に起きたニュータウンの風景、ノイズのない空間はそれからの時代でますます拡大していったように思います。