飢餓がひどくなり人肉食が横行した

1943年1月18日に解囲されるまで、このドイツ軍の封鎖によって、レニングラード市民がめた悲惨は筆紙につくしがたい。食料備蓄がほとんどない状態で包囲された同市の配給は、とても生命を維持できない量にまで切り詰められた。たとえば、1941年末のパンの配給は、1日に125グラムにすぎなかったのだ。飢餓がレニングラードに蔓延した。ある医師は、つぎのように回想している。「12月になって、餓えに寒さが加わり、公共交通機関が停止すると、死者が出てきた。凍えて、餓えた人々は、誠実にその〔労働の〕義務を果たした。1日に125グラムのパンと腐りかけたキャベツの葉か、パン種のスープを摂っただけということがしばしばだったのに、とぼとぼと何十キロも歩いていったのである」。

こうした窮境にあって、人肉食が横行するようになった。1941年12月13日付の内務人民委員部(NKVD)の文書には、最初の人肉食に関する報告が現れている。1942年12月までに、NKVDは、死肉食・人肉食の嫌疑で2105名を逮捕した。ただし、当時のレニングラードのNKVDは、体制に従順でない分子を逮捕する名目に人肉食を使ったと伝えられているから、実際の数は判然としない。なお、人肉食に関するNKVDの報告が公開されたのは、ようやく2004年になってのことだった。

900日の包囲で100万人以上が犠牲になったという

市民の死亡率も、たちまちはね上がった。1941年10月には、それまでの月平均死亡数より約2500人増、11月にはおよそ5500人増である。この数字は、12月には、おおよそ5万人増にまで上昇した。加えて、ドイツ第18軍には、市民の降伏を受け入れてはならないとの命令が下達されていた。同軍麾下のさまざまな部隊の記録には、「繰り返された突囲(とつい)に際して、女や子供、丸腰の老人を撃った」と記載されている。

大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)

もっとも、レニングラードの惨状を招いたのは、ドイツ軍だけではない。革命の聖都を放棄することをよしとしなかったスターリンは、敵がレニングラードの門前に迫っても、市民の一部しか避難させなかった。その結果、およそ300万人が包囲下に置き去りにされることになった。さらに、レニングラードの防衛態勢を維持するために、NKVDの秘密警察も冷厳な対応を取った。動揺する者、統制に従わない者を「人民の敵」として狩り立てたのだ。1942年6月から9月にかけて、レニングラードでは、9574名が逮捕され、うち「反革命集団」の625名が「根絶」されたとある。

結局、900日におよぶ包囲の結果、100万人以上が犠牲となったとされるが、正確な数字は確定していない。ヒトラーは、モスクワやスターリングラードも同様の運命に陥れるつもりだったと唱える研究者もいる。周知のごとく、軍事的敗北により、それは現実とならなかった。

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