後継者不在の会社としてM&A仲介会社の打診を受けた井上氏のダイニチ評は、「技術は突出して素晴らしかったが、発注側とのマッチングがうまくなされていなかった」。もっとも、当時は井上特殊鋼に在籍していた谷佳憲・現ダイニチ常務は、「将来性のある医療機器分野への進出が期待できる」ことに注目した。

勝ち残りのためにありとあらゆる知恵を絞らねばならない

顕微鏡で見つつガンドリルの刃先を磨く(写真上)。国際宇宙ステーションの日本実験棟「きぼう」の動物実験でダイニチ製注射針が使用されたため、JAXAからバッジが贈られた(同下)。

「一般に中小企業が弱いのは、営業力・交渉力。広い視野と情報収集・分析力に欠け、見積もり依頼があっても、せっかく開発・蓄積した『現在の技術』を『価値』として売り込むことができず、時間あたりの加工費用を見積もりの基準にしてしまう」(井上氏)

その点、井上特殊鋼は、中小企業の各工場の持つ技術・技能の「力」の意味を客観的に把握し、製造を依頼する会社との間に立ち、適正な価格設定を提示できる。

そのコンサルティング能力を信頼した下村氏が決断した。山田修平工場長は、「突然のことで社員は不安がったが、井上特殊鋼側は好意的に接してくれました」と当時を振り返る。

「実績が思うように上がらなかった1年目は辛かったが、2年目に『小さな穴から大きな未来へ』という現在の方向性に沿った営業・設備投資と人員の配置換えを断行。業績も勢いよく上がり始めました」(谷氏)

こうしてダイニチは、経営資源を「穴開け」加工という“本筋”に注力。自らの「価値」をマーケットに堂々と問える企業に生まれ変わった。

企業は、勝ち残りのためにありとあらゆる知恵を絞らねばならない。あえて買収される道を選んで、得意の“本筋”に注力するのも、その立派な知恵の1つだろう。

会社概要【ダイニチ】
●本社所在地:岐阜県可児市
●資本金:1550万円
●売上高:2012年度2億6668万円、17年度4億2000万円
●従業員数:23人
●社長:井上寿一(1958年生まれ。慶應義塾大学卒業。12年より現職)
●沿革:1948年創業。「精密複合加工」「微細穴加工」「精密深穴加工」「円筒ホーニング加工」の4種類の加工技術。12年井上特殊鋼グループ入り。
中沢孝夫
兵庫県立大学大学院客員教授
1944年、群馬県生まれ。全逓中央本部勤務を経て立教大学法学部卒業。福山大学経済学部教授などを経て現職。約1200社のメーカー経営者や技術者への聞き取り調査を実施。具体的なミクロの経済分野を得意とする。著書に『世界を動かす地域産業の底力』『中小企業新時代』ほか。

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(構成=中沢明子 撮影=山口典利)
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