理解不能な凶悪犯罪を「薬物」でかたづけたくなる
こういうと、必ず過去の覚せい剤常習者による凶悪犯罪のことをあげ、「そうはいっても、シャブをやってるやつは、いきなり人を殺すじゃないか」と反論する人もいます。確かにそういう事件があったのは事実ですが、細かく検討すると、薬物の影響がことさらに誇張されているケースが少なくありません。
たとえば、よく言及されるのは昭和56年に社会を震撼させた「深川通り魔殺人事件」です。犯人の川俣軍司がある時期覚せい剤を常用していたのは確かです。しかし、佐木隆三のルポ『深川通り魔殺人事件』(文藝春秋、1983)によれば、犯行に直接影響を与えた精神病症状である「電波」は、彼が覚せい剤に手を染める以前から存在し、覚せい剤使用の有無に関係なく、長期にわたって持続していたものでした。専門医の立場からみると、あの事件を覚せい剤の影響だけで論じるのは無理があると考えています。
思うに、世の人々は理解不能な凶悪犯罪が発生すると、未知が引き起こす不安・恐怖を軽減しようとして、できるだけその責を薬物という外在物に帰そうとする傾向があります。2012年に米国で発生した猟奇的傷害事件「マイアミ・ゾンビ事件」はそのよい例です。
この事件は、加害者が全裸で通行人の顔にかみつき、左目、鼻、顔の皮膚の大半を失う大けがを負わせたものです。加害者は駆けつけた警官が数発発砲しても被害者から離れなかったため、その場で射殺されました。事件直後、「被害者の顔を食いちぎる」というグロテスクな凶行は、加害者が摂取した危険ドラッグ「バスソルト」の影響だと報じられました。ところが捜査資料によれば、加害者の体内から危険ドラッグの成分は検出されず、危険ドラッグが事件の原因ではないことがわかっています。
「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」の功罪
なぜ多くの人は「シャブ山シャブ子」の演技、あるいは番組制作者の演出に、リアリティを感じてしまったのでしょうか。
海外の先進国に比べて、日本人の規制薬物の生涯経験率は驚くほど低く、日本は薬物に関してきわめてクリーンな国です。国民の大半は、一度も「本物の薬物依存症者」と直接出会うことなく生涯を終えます。会ったこともない人に対して、あのような偏見と差別意識に満ちたイメージを持っているのは、一体なぜなのでしょうか。
私は、約30年前、民放連が行った啓発キャンペーンのコピー、「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」や、学校における薬物乱用防止教室の影響は無視できないと考えています。そうした啓発では、薬物依存症者はきまってゾンビのような姿で描かれています。