ちなみに、フェルナン・ブローデル(歴史学者)は、その著『文明の文法』書中に「皇帝制度が『中国の連続性』を説明する」と書いたのであるけれども、中国共産党体制下、毛沢東が初代、習近平が当代の「皇帝」として登場している事情は、ブローデルの指摘の正しさを示唆している。
皇帝とその延臣官僚層は、「権力」を独占し、それを半ば恣意(しい)的に行使する。皇帝やその延臣官僚層は、自らの「権力」によって集めた富を自らのために私することには大した躊躇(ちゅうちょ)を抱かない。皇帝とその延臣官僚層、そして民衆の間にある途方もない格差は、自明のものとして認識される。
民衆における貧困の克服や境遇の改善は、皇帝やその延臣官僚層の「統治」の主な目的とされない。皇帝とその延臣官僚層は、対外姿勢に際しては、「華―格上、夷-格下」という図式を持ち出す故に、諸国の「平等」という概念を理解しない。
こうした「統治」の様相は、中国共産党体制下でも大して変わってはいない。しかしながら、こうした中国史を貫く「統治」の常識こそは、日本の人々には最も受け容れられないものであろう。というのも、仁徳天皇が「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」と詠んだという故事に現れるものが、日本における「統治」の常識であるからである。
日本では、特に江戸期に顕著になったように、「権威」は朝廷・公家,「富」は豪農・商人、そして「権力」は武家によって、ぞれぞれ分掌される社会様相が出現した。しかも、各々の武家が行使する「権力」の及ぶ範囲は、日本全土で細分化されたものであった。このような社会様相の下では、「統治」に携わる人々が手にする「権力」は、それを私するのが論外であるのは無論、その行使も抑制的な色彩を帯びざるを得ないのである。
今の「中国の隆盛」は世界史に何を残すのか
加えて、重要な点は、現下の「中国の隆盛」と呼ばれるものが何を世界史に残すかということについて、確たるイメージができあがっていないことだ。
18世紀後葉以降、覇権国家としての英国は、「自由貿易」の理念の他に、アダム・スミスの経済学やアイザック・ニュートンの物理学に代表されるさまざまな学術体系、あるいは「背広と紅茶」に象徴される英国流生活流儀を広めた。また、20世紀初頭以降に英国の覇権を継いだ米国は、「自由と民主主義」の理念の他に、「ジーンズ、コカ・コーラ、ハンバーガー」に象徴される米国的生活様式を広めた。
こうした文物の体系は、幾多の人々が「佳(よ)きもの」として受け容れた故に、世界中に広まり定着したのである。過去数十年の「中国の隆盛」は、これに類するものとして何を世界に示し得たであろうか。
現下の中国は、「カネと権力を恃(たの)んで偉そうに振る舞っているけれども、その一方で他人を惹(ひ)き付ける魅力を持たない」姿をさらしているといえる。特に日本では、こういう姿は「成金」の言葉とともに相当に強い揶揄(やゆ)と侮蔑(ぶべつ)の対象となる。これもまた、日本の人々が「中国の隆盛」を決して喜ばないゆえんであろう。