確かに、日本においても西欧世界においても、もろもろの封建領主は、互いに並立的に「権力」を保持し、それを行使した。しかも、日本における博多や堺、そして西欧世界におけるハンザ同盟諸都市のような自治都市の形成は、封建領主の「権力」も相対化される風景を出現させた。

この中世封建制の様相こそが、自由、民主主義、人権、法の支配といった「近代の価値」の揺籃(ようらん)となったものである。梅棹の議論が画期的であるゆえんは、既に1950年代の時点で、日本の人々の思考を永く呪縛した「東洋と西洋」という図式に代えて、「文明の特質上、日本に近いのは、中国ではなく西欧諸国である」と指摘した事実にある。

封建制から近代に向かった「亜周辺」vs専制と服従の「中心」

梅棹に似た「文明」認識の枠組みを提示したのが、カール・A・ウィットフォーゲル(歴史学者)である。ウィットフォーゲルによれば、古来、ユーラシア大陸の東(黄河流域)と西(メソポタミア)では水利と灌漑に支えられた文明が登場し、その文明の様相は、「専制と服従」を旨とする社会構造によって特色付けられた。こうした文明の「中心」では、近代以前に至るまで「専制と服従」に特色付けられた帝国が存続し、ウィットフォーゲルは、その様相を指して「東方的専制主義」(oriental despotism)と呼んだのである。

そして、ウィットフォーゲルによれば、「文明」は「中心―周辺―亜周辺」の3層構造から成り、その文明の「中心」から最も離れた「亜周辺」には日本や西欧世界が位置付けられた。ウィットフォーゲルも、梅棹と同様に、日本と西欧世界が文明の「中心」である中華帝国やイスラム帝国から隔てられた故に、その「専制と服従」の様相から逃れられた事情を説明しているのである。

現在、日本と中国の差異を語る際には、自由主義体制と共産主義体制という政治体制の差異が指摘されるものであるけれども、それは、梅棹やウィットフォーゲルによって示唆された日中両国の「文明」上の差異が上澄みとして露出したものであるといえる。日本人の大勢が中国中心の地域秩序を受け容れられないと感じるゆえんは、古来、日本が「華夷秩序」と称された中国中心の秩序の埒外(らちがい)にあった事情もさることながら、昨今の中国の隆盛を機に直(じか)に接するようになった中国「文明」の様相に悪しき印象を抱いているという事情にある。