鶴瓶のスゴさは一般には伝わりづらい。試しに「どこがスゴいと思うか」とアンケートを取ったとしても、答えに窮する人が多いはずだ。

同世代の芸人からはもとより、後輩芸人にまでイジられ、ツッコまれ、タジタジになっている姿からは、“大物感”がまったくない。

「どこがおもろいねん」だけが残る至芸

時にたどたどしく、冗長なトークは、短い時間でフリ、オチを完成させている今のテレビのフリートークからは時代遅れのようにも見える。

好感度は高いが、お笑い芸人が目指すべき頂点とは別の場所にいる。

戸部田誠『笑福亭鶴瓶論』(新潮新書)

そんな風に思っても無理はない。けれど、それはまったくの誤解だ。

たとえば、鶴瓶は日常のなんでもない出来事を寄り道しながら、たどたどしく話し、最後にはオモシロエピソードに仕立てあげる。それは「鶴瓶噺」としか言いようのない至芸である。

もし鶴瓶の話を聞いた僕らが、それを翌日、学校や職場で「昨日、鶴瓶がこんな話をしてて」と話しても、聞いた人から「どこがおもろいねん」と言われてしまうだろう。

「この『どこがおもろいねん』だけが(相手の印象に)残るわけや」

だからなんとなく鶴瓶は“軽く”見られてしまう。

「けど、だから僕は長生きしてるんです」

その芸当は、彼の話芸をひとつひとつ分析すればできないことはないかもしれない。

“ヨゴレ”仕事を嬉々として行う60歳

だけど、鶴瓶のスゴさはその“芸”そのものではないような気がする。分析すればするほど、そのスゴさの本質から離れていくのではないか。

60歳を超えた現在(2017年)も、ローカル番組を含めテレビのレギュラーは6本。しかも、多くの番組で企画段階から携わり、『A-Studio』(TBS、2009年~)などのように自ら多くの時間と労力を課している番組も少なくない。それに加え、2本のラジオ番組も継続中。そして自身の単独ライブといえる「鶴瓶噺」はもとより、現在は落語に力を注ぎ、高座に上がり続けている。

少し前で言えば2007年の『NHK紅白歌合戦』の司会を務め上げたかと思えば、その翌年末には「『紅白』からオファーがないから」と牛のコスプレで“授乳”に挑戦したり、ローションまみれになって水着の女性たちにダイブしたりといった“ヨゴレ”仕事を嬉々として行う。

なんたるバイタリティだろうか。

その源はなにかと問われ、鶴瓶はこう答えている。

「スケベやからかな(笑)」

スケベ。

まさにそれは鶴瓶を形容するに相応しい言葉だ。