【ばるぼら】Pitchforkは星付けをした上でながーい批評文を書いてくるんですよ。「70年代の100枚」「80年代の100枚」「90年代の100枚」みたいな特集もどんどん組んで、自分たちはこういうものを評価しているって価値観をバンと打ち出してくる。でも「ナタリーが選ぶ90年代の100枚」なんて絶対やらないと思うんですよ。

批評の代わりが「統計」しかない

【さやわか】そもそも読者がそれを望まないんじゃないかな? たとえばコミックナタリーの編集長だった唐木さんはわりと価値判断をしたい派の人なので、コミックナタリーで「コミックナタリー大賞」とかもやっていました。でもあまり活発ではないですよね。しかもあれはナタリーが自分たちで価値判断したものではなくて、あくまで編集者にアンケートを取った結果なので、批評というわけでもありません。結局『このマンガがすごい!』(宝島社)とか「本屋大賞」みたいなものですからね。やっぱり商業性が優位というか、いまは数の勝利の時代ですよね。

【ばるぼら】批評の代わりになるものが統計しかないんですかね。『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)なんて本もありましたが。みんながリンクを張ってるサイトはきっとよいサイトだっていうGoogleの論理と同じような価値判断が、いろんな規模で行なわれている。

【さやわか】ナタリーがみんなに支持されるメディアになったのは、やっぱりナタリーが人を動員してるからだと思うんです。ナタリー自身では価値判断をしないというやり方によってワーッと人が集まるようになりました。それで「人が集まってるからナタリーがすごい」みたいな妙な循環になっている。

【ばるぼら】また『動員の革命』的な話になっちゃった!

【さやわか】2011年に佐々木俊尚さんが『キュレーションの時代』(ちくま新書)という本を出しました。でも、ここで佐々木さんの言う「キュレーション」もエディターシップに基づいて情報の価値判断をきちんするという話ではないんですよね。

たしかにいまのインターネット社会は情報が過多になっているから、情報の取捨選択が重要になってきます。『キュレーションの時代』もそういう問題意識で書かれていますが、そこで提示されるキュレーションというのは「SNSでできた人と人のつながりによって情報が自ずと取捨選択される。これからは誰もが自分で情報をフィルタリングする時代になるんだ」というものです。つまりここでは、TwitterやFacebookのタイムラインがキュレーションだということになるわけですよね。煎じ詰めれば「バズってるネタはタイムラインに流れてくる。バイラルメディアがこれからくるよ」というだけのことです。