父との葛藤の中で2代目を継ぐ

固定刃と回転刃を使い、硬い素材から柔らかい素材をこそぎ取るように剥離する。

現在、周囲の期待を背負って奮闘しているエムダイヤだが、実は誠一の創業した前身の会社が2001年に倒産という大難に遭っている。誠一は鉄工所勤務を経て、1979年に独立、起業し、油圧機械の修理業を始めた。仕事一筋の技術屋で、機械をいじるのが何よりも好き。頼まれれば採算割れでも仕事を請け負い、経営的にはいつも苦労していた。

しかし、頼まれて開発したガスボンベの処理装置がヒットして、業績が好転、社員も10人ほど抱えるようになった。弘吉は、そんな父を見て育ち、将来、父の会社を継ごうと高等専門学校で機械技術を学んだ。本科を卒業した1995年、さらに2年間の専攻科に進むつもりだったが、父の会社の業績が急激に悪化。倒産の危機を迎えた。

弘吉はいったん休学して父を支え、会社は持ち直したように見えた。ちょうど、その頃、顧客から廃タイヤの粉砕・破砕処理をできないかと相談され、誠一はその難題に取り組んだ。だが何度やってもうまくいかない。試行錯誤を繰り返す中で、開発費がかさんだ。

あるとき、破砕機の刃が欠け、運命のいたずらか、欠けた刃がうまくタイヤのゴムをそぎ落として、ワイヤと分離できた。それまで刃がワイヤに当たる度に刃こぼれが起き、その補修費用がバカにならなかった。誠一はこの偶然を見逃さず、開発を続け、ついに1999年に完成した。当初は廃タイヤ専用の破砕装置として売り出し、マスコミにも注目された。当時、NHKも取材に来たという。アメリカの大手自動車会社の副社長がハワイでそのNHKの番組を見て、直接機械を見たいと連絡があったほどだという。

弘吉は安心して石川県の大手工作機メーカーに就職、しばらく武者修行して父の会社に帰るつもりだった。

ところが、2001年、誠一はよからぬ会社に装置を販売し、その売掛金が回収不能となった。負債総額は3億円を超え、ついに倒産を余儀なくされた。森一家は工場も家も失った。弘吉はあわてて実家に帰り、惨状を見た。

「この間、資金繰りにかけずり回ったのは母でした。父は、逃げるように開発に熱中し、結局、会社は倒産。自宅も土地も競売にかけられ、私が家を出るとき、母は声を上げて泣きました。そんな姿は初めて見ました。当時、私は石川県で一人暮らしをしており、そのアパートに帰る途中、車の中で悲しくて悔しくて涙で前が見えませんでした。母をこんなに苦しめた父を責めたこともあり、親子の関係が少し疎遠になっていた時期もあります」