父やベテラン職人たちの抵抗を乗り越えて

なぜ、山田は3Sに取り組み始めたのか。

父・英二が創業したのが1959年。以来、必死に働き、プレス機を1台ずつ増やしていった。山田が入社した94年には社員は4人ほどだったが、利益も出て、98年には9人に増え、ハワイへ社員旅行に行ったほどだ。

山田は有頂天で「山田製作所は永遠に栄えるぞ~」と乾杯した。だが、翌年に状況が一変。受注の大半を占めていたリチウム電池部品に関わる仕事が市況の悪化で激減。月商が95%も減り、大赤字に転落した。当時、山田は専務、雅之は常務だった。

焦った山田は新規顧客の開拓に走るが、全く仕事が取れなかった。

「初めての訪問先で、こう言われたんです。『機械は持ってないわ、技術は平凡やわ、値段は安ないわ。ところで、あんたんとこの特徴って何やねん?』」

工程管理ボード。

2軒目も3軒目も同じだった。強みも特徴もないと言われて、くやしくて拳を握りしめたが、反論ひとつできなかった。

そんなとき、あるセミナーに弟と一緒に顔を出して、3Sを知った。「必死にこれをやったら、変わるかもしれない」と直感した。

当時の工場は長年の油と鉄くずが積み重なり、床がコンクリートか土かわからないほど。職人たちは平気で床に吸い殻を捨てたり、痰を吐いていた。

99年2月、山田は朝礼で「今日から徹底した整理、整頓、清掃をしたい。毎朝、8時から30分間やるから手伝ってくれ」

だが、社員は無反応。怒鳴り声を上げたのは当時社長の英二だった。

「お前はアホか! その30分、カネに直したらなんぼになる思てるねん!」

それでも、山田は弟と一緒に強行した。