日本を震撼させた11日間

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驚愕の水攻めから電撃の中国大返しへ。(上図)総延長3kmの大堤を完成させ、城が水没していく中、城主清水宗治は自刃を決める。(下図)中国大返しの最中に「信長の無事」を知らせるニセの手紙をばらまくなど、味方を増やす。富田に着く頃には軍勢は4万に膨れ上がっていた。

信長が本能寺に仆れたという驚天動地の報がもたらされたとき、水攻め最中の高松城にあった秀吉は毛利方と迅速に講和するや大雨と洪水の中を姫路城へと一昼夜で駆けたことはあまりにも有名な咄で、小学生でも漫画を読んで知っている。しかし、この奇跡の咄には演出が入っている。

6月2日の本能寺の変から明智光秀を討つ6月13日までの「日本を震撼させた11日間」は、秀吉の一生の中でとくに輝いている。戦国史研究の歴史学者である故高柳光寿博士も高松城から山崎の合戦、清洲会議、信長葬儀の単独挙行、岐阜城攻め、賎ヶ岳合戦で宿敵の柴田勝家を破るに至る1年間、秀吉の輝きを記している。

秀吉の人生のピークへと至るスタートが、高松城から姫路城への中国大返しである。これは黒田官兵衛が秀吉に進言した。具体的作戦を立案し、秀吉が実践を決断。黒田官兵衛は姫路まで、秀吉軍の殿軍を務めた。

これと同じ道筋を筆者はJRの普通列車で辿ったことがある。

秀吉は馬で駆けたのだから筆者も同じ道を辿るにはバイクが格好の速度と思ったのだが、レンタルバイク屋は見あたらず、結局、在来線を利用することにした。スタートは吉備線の備中高松駅。岡山行きにまずとび乗る。秀吉が天正10(1582)年6月6日深夜、毛利方に気づかれないように前線を移動し、さらに堰を切って周辺を水浸しにしてから猛スピードで岡山の沼というところへ駆け出した。列車は備前ののどかな田園と新興住宅地の交錯する風景を横切った。秀吉が駆け抜けた街道は明らかではないが、JRの駅名でいうと、まず岡山までは吉備津、備前一宮、大安寺、備前三門、馬なら2時間弱の距離と思われる。その夜、大雨が降ったと史書はいう。河川もところどころで氾濫し、水浸しの道を秀吉は泥だらけになって駆けて姫路を目指した。

高島、東岡山、大多羅、西大寺。このあたりは屋根が黒く、家づくりもひなびた山陰に比較すると豪華に見える。古代から備前は肥沃な土地柄に恵まれた。裸踊りで有名な西大寺から赤穂線は海沿いを走り相生で山陽本線に合流する。新幹線も乗り入れている相生の先が姫路である。途中、ある考えが浮かんで東岡山に戻り、山陽本線の普通列車に乗りなおした。当時、海岸線沿いでは毛利水軍の跋扈があったから秀吉はひょっとするとこのルートより、山沿いを辿ったのではないかと思ったのだ。後日、史書を調べたら、やはりそうだった。

東岡山から上道、瀬戸、万富、熊山、和気(和気清麻呂の生誕地)、吉永、三石、上郡、有年、相生、それから竜野、網干、はりま勝原、英賀保とつづき、ようやく姫路である。普通列車で1時間半だ。

新幹線営業距離にして89キロ。当時、秀吉は一昼夜で駆けたことになっているが、物理的に難しい行程で、おそらく岡山付近で休息するか、仮寝をしたはずである。