クーデターではなく「維新」「革新」と自称

26日未明から29日夕刻までの4日間、彼ら青年将校と陸軍指導者との間に駈け引きがつづいた。天皇は、青年将校の決起という報告を受けてからは、「股肱ここうの臣」が虐殺されたこともあり一貫して「断固討伐」を主張し、その態度に揺るぎはなかった。

しかし、陸軍指導部のなかにはその意に反してあいまいな態度をとる者もいた。そのために青年将校の側も強気になるなど、この4日間は、青年将校が天皇の命令なくして兵を動かしたという大権の私議、あるいは統帥権の干犯に、昭和陸軍の軍人たちがどのような態度をとるかが試されることになった。それがその後の昇進や栄達に大きな影響を与えることになったのである。