「贅沢」とは自分を捨てることである
「3万円でできる贅沢」と突然言われても、私には何も思いつかない。とり立てて趣味もないし、常日頃欲しいと思っているモノを買っても、それはただの買い物と何ら変わらないような気がする。使い道をしばらく考えるために、とりあえず貯金するという手もあるが、それでは贅沢というより倹約になってしまう。やむなく国語辞典を引いてみると、「贅沢」はこう定義されていた。
「必要以上に金銭などを費して物ごとを行なうこと」
(『日本国語大辞典』小学館 昭和49年)
ある物事に対して必要以上にお金などを使う。重要なのはこの「必要以上」ということで、要するに帳尻を超えることなのである。そうなると、「3万円でできる」などと事前に帳尻を合わせるような発想自体がケチくさく、その発想の中にいる限り、贅沢などできないだろう。ここは「3万円で○○ができる」ではなく、「○○に3万円も使っちゃうの!」
と驚くような契機が含まれていなければならないのである。
しかし自分のやることに自分で驚くというのは難しく、できたとしてもどこか作為的である。「必要以上の出費」だと思っても、それが贅沢気分を味わうためであれば、その目的のために必要な出費ということになる。自分が欲しいものを自分で手に入れると一瞬の達成感とともに虚しさを覚えるのは、おそらくそこで帳尻が合ってしまうからなのである。
つまり「贅沢」とは、自らの収支感覚からの飛躍。自分を捨てることが肝要なのではないだろうか。
そう考えると、贅沢なお金の使い道は、やはり贈り物だろう。そもそも贈り物は自分にとっても相手にとっても、「必要以上」でないと価値を生まない。贈り物こそが「贅沢」の源泉なのである。
すっかり前置きが長くなってしまったが、3万円あれば、私なら迷わずピアスを買う。もちろん妻への贈り物である。ピアス(あるいはイヤリング)は、指輪などと違って1000円単位のものが主流なので3万円となると「贅沢」の部類に入るといってよいだろう。ちょっと勿体ない感じもするが、それでこその「贅沢」である。