なぜ人は働いていると運動をしなくなるのか。成城大学教授の平尾剛さんは「社会人になると時間がない以上に、運動へのハードルが上がっていく。そのハードルを上げているのは皆が持っている“アレ”だ」という――。
お腹の出た男性
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元日本代表なのに、運動しなくなった

先日、50歳になった。自分が50代になるなんて思いもよらなかった。というのはいささか大袈裟で、ほとんど誰もがいずれは50歳になるわけだから、想像するのを忌避していたというのが正確な表現である。

当然ながら、いまや30代のときのような体力はない。ラグビー選手だったときのように機敏には動けないし、雨天時などに気圧が下がると足首などの古傷が痛む。

錆びゆくこのからだを恨めしく思いながら、ふと気づく。そういえば最近は運動をしていないと。

31歳でラグビー選手を引退してからしばらくは、積極的に運動を行っていた。空き時間になると勤務する大学周辺でランニングをしたり、グラウンドでシャトルランをしたりしていた。ラグビーボールを蹴り、タックルバックにからだを当て、四股を踏んでもいた。

大学教員に転身してすぐのころはまだ時間的に余裕があって、授業や会議や研究の合間を運動に当てることができていた。からだを動かすことで得られる爽快さをいやというほどわかっていたから、積極的に汗を流していたわけである。

週に1〜2回は何らかの運動を行っていたし、特段、意を決することもなく、ただ衝動に任せてからだを動かせていた。

なぜ社会人の運動は続かないのか

それがいつしかできなくなっていた。からだを動かすことが好きな私にとって、これは衝撃的な気づきだった。運動への衝動がいつしか薄れていたのである。

運動がもたらす爽快さを身をもって知っている私でさえそうなのだから、スポーツや運動に縁遠い人たちはなおさらであろう。健康診断の結果が思わしくないとか、階段を上がるだけで息が切れるなどの理由から、なにかしらの運動を始めなければと思ってはいるものの、その一歩がなかなか踏み出せない。忍び寄る老いに漠然とした不安を感じながらも、それを解消するための運動を始めることがどうしてもできないでいる。

少し早く起きてジョギングをしよう。近所にできたスポーツジムに行ってみるか。昔かじっていたゴルフを再開しよう――。

そう眦を決するもののなかなか実行には至らず、たとえその億劫さを振り切って始めたとしても3日も経てばいつもの生活に逆戻りする。継続できなかったことへの自己嫌悪が余韻を引いて、自らの意志の弱さに項垂れる人もいるだろう。

なぜ運動ができない、あるいは続かないのか。これが今回のテーマである。