晴久は敵の兵糧を欠乏させ、13人を寝返らせることに成功

輸送通路を非戦闘員の労働者が使われる。そこへ地理に慣れている尼子の少数部隊が襲いかかる。これが「大内方難儀」の実相と考えて間違いなかろう。状況証拠もある。

たとえば、毛利家ゆかりの「覚書」に、尼子晴久が大内陣営に寝返った出雲国領主層に「廻文まわしぶみをめくらし調略」の工作を進めたことが伝えられている(長谷川博史「遠用物所収『覚書』にみる史料の可能性」)。

大内家に寝返った出雲国の領主たちを、ふたたび尼子家へ寝返らせるなど、普通は不可能だろう。聞く耳すら持ってもらえないはずだ。だが、糧道が壟断されていたらどうだろうか?

これこそが尼子の強力な交渉カードだったに違いない。大内軍は実際に兵糧が途絶えていており、この状況を作り出したことで晴久の手元にカードが手に入ったわけである。事実としてすべてを一変させる大きな事件が起こった。

なんと、4月30日に、三沢為清・三刀屋久扶みとやひさすけ本城常光ほんじょうつねみつなど「雲州国衆」(出雲国現地の領主層のこと)と、安芸国の吉川興経、備後国の山名理興がこぞって寝返りを決意したのだ。合計13人の離反であった。

このような一斉離反は、普通では起こり得ないことである。だが、晴久はその「普通」を覆したのであった。兵糧欠乏からの一斉に離脱発生。事態を知った大内軍は一時的に混乱状態に陥った。

大内義隆は出雲からの撤退を決めるが、パニックで悲劇が…

大内軍は、尼子方に寝返った者たちと矢戦やいくさを繰り返したが、もはや小競り合いで状況が改善される状況ではない。

義隆に決断のときが来ていた。計画を中止して撤退するほかなくなったのである。

5月7日午前4時、大内将士は続々と撤退を開始する。黙って見逃す手などない。尼子軍の追撃が始まった。

義隆は京羅木山から揖屋いやへ移り、船を出させた。北上を選んだということは、南方の通路が遮断されていたのだろう。水路を使い、安全な日本海側から帰国しようとしたのだ。

だが、数万もの大軍を収容できるほど大量の船を、おそらく極秘に決めた撤退の当日に準備できるはずがない。