「故人の生き様」と「遺族のありよう」
私たちの心も、体も、生活も、人生も、社会も、気づいていないだけで、見えていないだけで、どこかで私たちのご先祖さまと繋がっている。
それを思い起こさせてくれる場所がお墓だ。
私はこれまで僧侶として、3000人以上の最期を見送り、遺族と関わってきた。その上で改めて思うことは、供養やお墓は「故人」と「故人の没後」の話ではないということ。
供養は最終的には遺族の判断によって、遺族が行うものだ。
戒名をどうするか、葬儀をどのように行うか、お墓は墓石にするか、納骨堂にするか、樹木葬にするか、山海への散骨にするか、そもそも、そんなものは必要ないと思うのか――。
いずれにせよ、供養が遺族によってどのように行われるかに「故人の生き様」と「遺族のありよう」が表れる。
故人が「どう生きたか」、そして「遺族がどう生きているのか」が、「墓」の行方を左右する。
「墓をどうするか」の前に考えるべきこと
ちなみに、今の散骨ブームの火付け役の一人でもあり、「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言した故石原慎太郎さんの遺骨は、本人の希望通り海に散骨されたが、その亡骸は家族葬で送られ、僧侶によって「海陽院文政慎栄居士」という戒名を授けられ、先祖が眠る菩提寺の墓に納められ、遺族によって守られている。
そして彼の著作や発言、政治家としての生き様は、今なお日本人の心を鼓舞し、守ってくれている。
供養や墓は、人間の「死」ではなく「生」を現している。
最も大切なこと、それは「墓をどうするか」を考える前に、「私の先祖はどう生きたのか」「親はどう生きたのか」、そして「私はどう生きるのか」だ。
「いつ死ぬか」「死後どうなるか」など誰にも分からないのだから。