お墓を大切に思うことは世界共通

お釈迦さま亡き後、その弟子が人々から慕われなかったならば、その弟子の弟子が尊敬されなかったならば、今の私たちに仏教は伝わっていないはずだ。

しかも仏教2600年の歴史は、キリスト教よりもイスラム教よりも古い。時代の変化、環境の変化、人々の価値観の変化を超え、伝導先の国々や民族の文化の影響を受けながらも、人々の心を支えてきた。

そこに気づいた私は、当時関わっていたすべての事業を離れ、ヨーロッパや中央アジア、そして仏教の故郷であるインドから日本までの仏教伝導ルートを3年かけて旅をし、現代社会における僧侶の「ありよう」と、お寺の価値、機能を問い続けた。

日本に戻って住職となり、「お墓」について感じていることが2つある。

一つは、世界のどこに行っても、お墓を大切に思っている人たちがいるということ。

彼らにとってお墓は、決して「負担」ではない。「無駄な出費」がかかる「面倒」なお荷物ではない。

お墓参り
写真=iStock.com/TATSUSHI TAKADA
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「遺族が先祖を守る場所」ではない

なぜならお墓は、「遺族が先祖を守っている場所」ではなく、「先祖が遺族を守っている場所」であり、「先祖とつながる場所」だからだ。

「人間」という漢字は、「人の間」と書く。人は人から生まれ、人に育てられ、人と関係しながら生き、死んでいく。そして死んだら全てが終わりかといえば、そうではない。

死んで無くなるのは肉体であって、故人の生き様や精神ではない。

故人の遺した精神や生き様は、もしそれが善きものであるならば、もしそれを善きものと捉える感性が残された者たちにあるならば、時を超えて後世に生きる者たちの心や体に受け継がれてゆく。

例えば、あなたがピアノで「エリーゼのために」を弾くとき、250年前に生きたベートーヴェンと繋がっている。

例えば、あなたが武道の「型」を稽古するとき、あなたは「型」を通して、50年、100年前に同じ型を稽古した達人たちと繋がっている。

あなたが春に彼女と見にいく満開の夜桜は、100年前の先祖が植えた桜であり、その道中にかかる橋は200年前の先祖が架けたものだ。

あなたのその丸い鼻やとがった耳は、あなたのお爺さんやお婆さん、お会いしたこともないご先祖様と繋がっている。