神社は「汚れをとる」場所ではない

参拝の前に、手や口を清める手水舎てみずやがありますが、みなさんは「お清め」や「おはらい」をする意味って、ご存じですか?

僕は最初、「汚れをとる」とか、「何か悪いものを払う」ことだと思っていました。ところが「けがれ」とは「汚れ」ではなかったんです。一説には、語源は「気・枯れ」で「気が枯れている」状態のこと。「気」はもともと「ケ」と発音していて、「気枯れ」は「ケガレ」と言っていたそうです。

「気が枯れている」とは、本来のあなたではないようすのこと。

たとえば身内や親しい人を亡くしたとき。悲しみに暮れ、いつもの精神状態ではいられなくなりますよね。これが「気が枯れている」とき。元気をなくしている状態です。そこで「お祓い」の御祈祷ごきとうを受け、元気を取り戻すのです。

我々は生きているだけで自然と「穢れ」がたまります。心はつねに揺れ動いているため、ときに乱れることがあるからです。

つみという漢字だけを見ると、悪いことを犯したととらえがちですが、ヒントは音にあり、「罪」という言葉は「つつむ(包む)」に由来します。「罪穢れを祓う」とは、いつものあなたではない状態にした「包み」をとり、本来のあなたに戻す、ということ。

ですから参拝に上がり神様に「気」をいただくことで、もとを取り戻し、「元気」になるのです。

もしまた気が枯れてしまったら、神社に上がって元気になる。こうしたサイクルを私たちの祖先はつくっていました。みなさんも落ち込んだときや悲しいとき、「元の気」を取り戻しに、神社に上がってみてはいかがでしょうか。

お賽銭は「恩送り」である

「お賽銭を奮発したほうが、ご利益りやくを受けられますか?」と聞かれることがあります。「ご縁があるように5円を入れる」という人もいますが、そもそもお賽銭の意味を取り違えているのかもしれません。

貨幣のない時代、人々は感謝の気持ちを込めて、また、この先を祈念して、お米や海の幸、山の幸を神様にお供えしました。お供えがお賽銭に変わっても、神様への気持ちは変わりません。ただ、昔の5円は現在の5万円とも50万円とも聞きます。いずれにしても大きな額ですね。

昔の人たちは、「いま無事に生きているのは周りの人のおかげ。これからもみんなで無事に生きられますように」と、自分が平穏安泰なときは人のぶんまでお金を納める精神があったといいます。

ところで、お賽銭の行方は神主さんの取り分だと思ってはいませんか? じつは違います。神様にお供えしたあとのお賽銭は、主に神社存続のための資金となっています。

考えてみれば、何十年、何百年と神社が保たれているのは、誰かがお金を出してくれたから。いま上がりたいと思ったときに参拝できるのは、自分より前の参拝者たちがお金を納めてくれたおかげです。

お参りをする人
写真=iStock.com/JGalione
※写真はイメージです

先に納めてくれた人に感謝し、次に神社に上がりたい人のためにお賽銭を納め、感謝をつないでいく。こうしたお賽銭で「恩返し」「恩送り」することが大切だと思います。

お賽銭は、未来のあなたにもつながっています。「また参拝したい」と思ったときに、神社が存続しているかどうかは、参拝者のお賽銭が大いに影響しているからです。「幸せを次につなぐ」。この精神で神社は成り立ち、保たれています。