2度も台風により崩壊した島の玄関口、桟橋は今も現役

「海に眠るダイヤモンド」もたびたび、主人公たちが島内外を行き来するが、端島への唯一の交通手段は船だった。閉山の頃は、端島と長崎港の間を片道1時間半の定期船が運行していた。1974(昭和49)年4月20日、午後4時50分。端島発の便を最後に、定期便は80余年の長い歴史にも幕を閉じた。

進学や就職のために島を出る者も、帰省で島へ戻ってくる者。端島へ仕事で赴任してくるもの。船が着岸する桟橋は、幾多の出会いと別れの場所だった。

しかし、台風の通り道でもある海域では、接岸がままならないこともたびたび。かつてははしけに乗り換え、ワイヤータラップを上って上陸していた。

大型船が接岸できる「ドルフィン桟橋」が完成したのは、1954(昭和29)年のこと。ドルフィン桟橋は、海底岩盤に杭を打ち込んだ人工島で、日本国内では初めて作られたのが、端島のそれだった。最新技術を駆使した桟橋だったが、1956(昭和31)年に台風で崩壊。二代目も1959(昭和34)年の台風により再び崩壊してしまう。

より強固な構造に変更した1962(昭和37)年完成の三代目ドルフィン桟橋は、1974(昭和49)年の閉山まで利用され、さらに現在の軍艦島上陸ツアーにも利用されている。

ドラマ第8話で、鉄平と朝子(杉咲花)が長崎へ出かけるために船に乗り込んでいたのも、時代的におそらくこの三代目ドルフィン桟橋だったと思われる。

1971年の三代目ドルフィン桟橋。写真の船は長崎への定期船
写真=軍艦島デジタルミュージアム
1971年の三代目ドルフィン桟橋。写真の船は長崎への定期船

5000人が暮らしたが…、無人島と化したその後の端島

人が去った端島は、その後どうなったか。

しばらくは三菱鉱業の後進会社・三菱マテリアルの所有となり、島の中央部にある無人の灯台のみが“現役”の無人島となり、ただ潮風と高波にさらされ、朽ち果てるまま数十年が過ぎていった。

南北約480m、東西約160m、中央部を縦に山脈のような地形が縦断している。おおむね、その東側が炭鉱施設、西側が居住区域となっていた。西側が外海にあたるため高波にさらされることも多く、高層建築群は「防波堤」的な役割も担っていた。ゆえに、潮風と波の影響を受け痛みも激しく、ところどころ崩壊も著しい。

たとえば、かつて「日給社宅」と呼ばれた社員住宅、16~19号棟。9階建鉄筋コンクリート造、端島を象徴する高層建築は、ところどころ緑に侵食され、各階の木柵は朽ちながらも、かろうじてその姿をとどめている。室内にはテレビなどの家具や、住人が置いていった雑誌などが残る部屋も。

高層住宅の合間を縫うように、山脈部分へと続く「地獄段」。山上にある端島神社へと通じる。比較的往時の姿をとどめているようだが……。

島の北東部、1957(昭和32)年の建設当時は日本一の階層を誇った6階建(のち7階を増築)の小中学校は、建物はそのまま健在だが、地盤沈下と海水の侵食によって基礎部分が剥き出しに。

もともと、岩礁の隙間を埋め立てて生まれた端島が、かつての姿へと戻りつつあるのかもしれない。

東側の炭鉱施設があった部分も、多くの設備は跡形もなく、コンクリートの支柱のみが一列に並んでいたるなど、現役時代の姿からは様変わりしている。