ソ連と中国共産党指導部の伝達役を担う

張がゾルゲから最初に与えられた仕事は新聞を読むことで、十数紙から国民党の軍事、政治、経済の情報を集め、自分の判断や分析を加え、報告にまとめた。他の仲間が英語に翻訳し、暗号化してモスクワに送った。

アレクセーエフは、ゾルゲと周恩来が最初に会ったのは、ホテルでの面会の二カ月前とみている。コミンテルン執行委のピャトニツキー委員長は三一年七月三日付で軍情報本部のベルジン本部長に書簡を送り、中国共産党指導部を早期に復活させる必要があるとし、

「周恩来らが早急に支配地区に移動し、政治局として活動するよう上海の諜報部に伝えてほしい。移動が危険な場合、周恩来らはモスクワ経由で行くことも可能だ。あらゆる手段を使って彼らを保護するようゾルゲに依頼する」と要請した。(『あなたのラムゼイ』)

ピャトニツキーは、ドイツでゾルゲをコミンテルン本部に勧誘した人物。コミンテルンは中国共産党指導部の再建を重視しており、ゾルゲがメッセージの伝達役だった。アレクセーエフは「コミンテルンが勧告した中国共産党の政治局候補リストと、実際の人事はやや異なっていた。ゾルゲが自分でリストに修正を加えた可能性がある」と推測している。

ソ連に育てられた中国が、ロシアの兄貴分になるとは

周恩来はゾルゲとの面会後、江西省瑞金に移動して毛沢東、朱徳らと合流。十一月に「中華ソビエト共和国臨時政府」を発足させる。張は数年後、陝西省延安で周恩来と再会した際、上海でのゾルゲ機関の活動を報告したという。

ゾルゲ機関を手伝った張は一九〇三年湖北省生まれの古参党員。後に娘二人が毛沢東の長男・毛岸英、次男・毛岸青と結婚したことで知られる。回想録の出版前に九十八歳で死去した。

ソ連はコミンテルンを通じて中国の共産主義運動を支援し、中国共産党は国共内戦の勝利を経て、四九年に中華人民共和国を建国した。その四十二年後、育ての親のソ連共産党は消滅したのに、中国共産党が今日、党員数九千九百万人を擁する世界最大級の政党になったのは皮肉だ。当初はソ連が中国の圧倒的な兄貴分だったが、現在は国力逆転で、ロシアが中国の弟分になった。

ゾルゲと中国知識人の関係では、中国革命の元老で、党の諜報工作に携わった著名学者、陳翰笙との交流が知られる。

中国のゾルゲ研究家、楊国光の『ゾルゲ、上海に潜入ス』によると、上海にいた陳翰笙はスメドレーの紹介でゾルゲと知り合い、進歩的人士が集まるサロンで交流した。このサロンには、仙台に留学し、著名作家になった医師の魯迅や、北京大学学長として大学改革を進めた蔡元培らも参加していた。

「ロシア伝説のスパイ」と呼ばれたリヒャルト・ゾルゲ
「ロシア伝説のスパイ」と呼ばれたリヒャルト・ゾルゲ(出所=『ゾルゲ事件80年目の真実』)