19歳の母の早すぎる死を皆が悼んだ

観音――観世音菩薩は、子宝や縁結びなど現世の望みを叶えてくれるとされる菩薩だが、その信仰は、衆生しゅじょうが救いを求めると菩薩がすぐさま救済してくれるとある『法華経』の教えに基づいていた。死を覚悟した者を極楽に迎え取る阿弥陀如来ではない、〈今・ここ〉の苦しみを救済してくれる慈悲の仏である。

いま、嬉子の命が絶えようとしているこの場で、人々が自然発生的にすがったのは、この観音菩薩だった。19歳の、母になったばかりの一人の女性である嬉子を救う仏は、道長が贅を尽くした法成寺の阿弥陀でも大日如来でもなかった。

嬉子はそのまま息を引き取った。『左経記』(同日)には「天下の道俗・男女、首を挙げて歎息たんそくすると云々(天下の僧俗男女が皆、嘆き悲しんだ)」とある。嬉子の悲劇は時代の記憶となったのだった。

信仰が道長を救ってくれることはなかった

道長は嬉子のことが諦めきれず、死の当日の夜には陰陽師に命じて「魂呼たまよばい」の術まで行わせた。亡骸のある土御門殿の東の対屋に嬉子の衣を持って上り、呪文を唱えながら北に向かって三度招くのだという(『左経記』同月23日)。だが娘が目を覚ますことはなかった。

葬送の儀が決まり、嬉子の遺体はいったん、四町ほど南の法興院に安置してから荼毘に付すこととなった。入棺の時には、冷たくなってしまった嬉子の肌をさすり、道長と倫子は「我を捨ててどこへ、どこへ」と泣き崩れた。

棺を運ぶ際には道長は足元がおぼつかず、頼通や教通に助けられてやっと歩くほどだった。寺に着けば棺を置いた車にとりすがり、一晩中一睡もしないで、泣きながら何事かをつぶやき続けた(『栄花物語』巻二十六)。

実資は、道長が仏法を怨んでいるとの噂を聞いた。大財をつぎ込んだ信仰が何の足しにもならなかったという「裏切られ感」からだろうか。また実資は、道長一家が、顕光と延子に加え小一条院の母で三月に亡くなった娍子せいしも怨霊となったと見て、怖れおののいているとも聞いた。

人々は「もっともだ」と感じたという。道長が北山あたりへの隠棲を思い立ったとか、嬉子の蘇生を夢に見たとかの噂も頻りだった(『小右記』同月8日・9日)。末娘を喪った道長の激しい悲嘆は真実だった。