妹・嬉子が姉・妍子を祟る最悪の構図

道長は、その後もなお娘の死に遭わなくてはならなかった。倫子腹次女で皇太后の妍子が、長患いの末、万寿4(1027)年9月14日、34歳で崩御したのである(『日本紀略』同日)。

小右記』には3月に始まる妍子の病の情報がそのつど記されているが、怨霊についての記述は少なく、また詳しくない。だが『栄花物語』(巻二十九)は、やはり顕光と延子、加えて今度は嬉子までが妍子に憑いたという。

嬉子の死後、その夫だった春宮・敦良親王と、妍子の娘の禎子ていし内親王が結婚したからである【図表1・再掲】。

道長家にとって天皇家との婚姻は当然の政策である。父の三条院を亡くし道長家が頼りである禎子内親王を春宮に入れることは、最善の策だった。だが、それが嬉子の怒りを買ったというのである。道長が長年、良しと信じてやってきた方法が、亡き娘をして生きた娘に祟らせることになった。嬉子が妍子を取り殺すとすれば、その原因は道長にある。

最期の時、妍子は道長を呼び、虫の息で髪を切る仕草をした。道長が尼になるのかと聞くとただうなずき、受戒の式では声を絞って「阿弥陀仏」と唱えた。即日、妍子がこと切れると、道長は「嘘だろう? これ、これ」と亡骸の御衣おんぞを何度も引きのけては起こそうとし「仏はむごい。私を今まで生かして、こんな目に遭わせるとは」と呪ったという(『栄花物語』巻二十九)。結局、家族への愛執では悟りに程遠い道長だった。

三人の娘の死後、道長自身の病が悪化

三人の娘の死について記しながら、『栄花物語』は何を言おうとしているのだろうか。愛し、慈しんだものを次々と喪っていく悲しみ。自信をもってやってきたことが裏目に出て、自ら報いを受ける苦しみ。わが人生は間違っていたのかもしれぬという疑い――。光源氏が紫上を喪った時と同じ思いを、『栄花物語』は道長の奥に察し、記しているのではないか。

こうして『栄花物語』では、道長は厭離穢土えんりえど欣求ごんぐ浄土の思いに達する。妍子の四十九日前後から、道長自身の病が目に見えて悪化し、頼通が治療のための加持祈祷を促すと、道長は断る。「ただ念仏を聞きたい」。

そして妍子崩御の3カ月後、法成寺の九体の阿弥陀仏だけを見つめ、耳に念仏を聞き、心には極楽を思い、手には阿弥陀如来の手と結んだ糸を握りながら逝くことになる(『栄花物語』巻三十)。