「無意識過剰」と考えるほかない存在

こうした私の感性は、自己愛からくるのだろう。

自分を信じている、ないしは自分を疑っていない。もともと自分を疑ったことがない。疑うとか疑わない、とか、信じるとか信じない、といった二分法でもない。

自分にしか関心がない。良く言えば「自分の考えを持っている」。

自分が好き/嫌い、という分け方も、多くの京大生が未経験なのではないか。何より、こう書いている私の書き方そのものが、自分を信じているわけでも、疑っているわけでもなく、淡々と書いている。

自意識過剰の反対語=無意識過剰といえるだろうか。これは、石原慎太郎氏(1932~2022年)を評した、文芸評論家の江藤淳氏(1932~1999年)によるものであり、かなりの数の京大生に当てはまるのではないか。

私や私の周りは、無意識過剰と考えるほかない存在ばかりである。

先の「変人」とのつながりでいえば、私が最もお世話になった方が、そういえるだろう。

京都大学の「折田先生像」(2011年版)。入試シーズンに毎年違った造形の張りぼてが設置され、訪れた受験生らを歓迎する
京都大学の「折田先生像」(2011年版)。入試シーズンに毎年違った造形の張りぼてが設置され、訪れた受験生らを歓迎する(写真=Takeshi Kuboki/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

自分にしか関心がなく、他人の目は気にしない

当時、大学院人間・環境学研究科の助手を務めていた葛山泰央さん(1968年~)を評して、同研究科の大澤真幸さんが「謎がないのが謎」とおっしゃっていたのが印象に残る。葛山さんの私生活を詮索するつもりは、昔も今もない。おそらく、京大では、誰かの私生活についてとやかく言うことそのものが避けられている、というか、あまり興味を持たれていなかったのではないか。

中でも、葛山さんの私生活についての謎のなさは際立っていた。朝から夜まで、また、土日でもかなりの時間を研究室で過ごす、そんなイメージを大澤さんは持っていたのだろう。そこから「謎がないのが謎」というフレーズが出てきたのだろうが、ここで言いたいのは、その当否についてではない。

それよりも、周りの誰もが、葛山さんを含めて、他人の目を気にしていなかった、という点を強調したい。気にしていなかったといえば、独立独歩というか、自己を確立しているかのような雰囲気を醸し出せるかもしれない。けれども、実態は、気にするつもりがない、ないしは、気にするという回路がない、といった程度だろう。

ここでも蛇足ながら、葛山さんも大澤さんも、東大出身だった。