京大名物「タテカン」撤去の衝撃
京大の周りには「タテカン」と呼ばれる、多数というより無数の、さまざまな看板が、石垣に立てかけられていた。長年にわたる風習であり、風物詩、風景のひとつとして地域住民にも広く受け入れられてきた、はずだった。
しかし、2017年10月に京都市が、景観を保護するために外壁などへの広告を禁じた条例(京都市屋外広告物等に関する条例)に触れるとして、京大に文書で指導、「タテカン」の撤去を求めた。
これに対して、学生はもちろん、OBからも「タテカン」は京大だけではなく京都の文化である、との声が出る。
京都市の条例そのものは1956年にできているものの、民間業者等への指導は2007年に改正され、本腰を入れるようになった。京大に対しては2012年から指導を始めたという。2018年から京都市と京都大学側は、景観を害するとして「タテカン」を撤去しているものの、京大職員組合が「表現の自由の侵害」などを主張し、2021年4月に、京都市と京大を相手に損害賠償を求める裁判を起こし、本書執筆時点(2024年10月)で係争中である。
「自由」や「変人」ぶりも変わりうる
山極壽一氏が、京大のトップである総長を務めていたのが、まさにこの時期なのだ。
2014年の総長選びで、当初、山極氏が選ばれると予想していた人は少なかった。教職員による投票(意向調査)で1位になる。学内の支持の高さを見せ、いわば、京大の自由を象徴する人物として選ばれている。
「タテカン」も山極氏も、ともに京大らしさ、すなわち、いい加減さや自由さを体現する存在だととらえられていたのだろう。その彼が総長を務めているときに、「タテカン」を規制するなんて。そう思った学生や教職員、出身者は少なくない。
ただ、私自身は、山極氏に、そこまでの信念があったとは考えていない。個人的な体験にすぎないが、彼の真骨頂は、おおらかさであり、臨機応変さである。山極氏にとっての京大の「自由」や「変人」ぶりもまた、時と場合に応じて変わりうるのではないか。
山極氏が総長として下した判断は、私は、仕方がないというか、そうするしかないものだったと思うし、もとより、「タテカン」をめぐって京大だけが特別、とするのは無理があるのではないか。
「京都大学新聞」は、「タテカン」規制ののちのさまざまな「闘争」について、丹念に取材していて、頭が下がる。頭を垂れるとはいえ、それ以上でもそれ以下でもない。そんな京大出身者が多いのかもしれない。