遊郭のある吉原に生まれ、遊女を手配する引手茶屋の養子に

蔦重は寛延3(1750)年、江戸吉原で生まれます。7歳の時に両親が離婚し、吉原で引手茶屋「蔦屋」を経営する喜多川氏の養子になります。引手茶屋とは、酒や食べ物を提供しつつ客の希望などを聞き、それに合わせた妓楼と遊女を手配してくれる吉原の案内所のような場所です。

ここで吉原のことを簡単に説明しておきましょう。

吉原とは、唯一の江戸幕府公認の遊廓です。もともとは日本橋近く(現在の人形町)にありましたが、江戸が発展していくにつれ、遊廓が町の中心部にあることは好ましくないと幕府から移転を命じられました。折しも明暦めいれきの大火(1657年)で全焼したこともあり、浅草寺裏の当時は田園が広がっていた日本堤に移転していたのです。移転して以降を「新吉原」と呼ぶこともあります。蔦重が生まれ育ったのはこの新吉原です。

歌川広重(2世)画の浮世絵「東都 新吉原一覧」、1860年7月
歌川広重(2世)画の浮世絵「東都 新吉原一覧」、1860年7月(写真=東京都立図書館参照/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

吉原の裏表に通じ、23歳で貸本屋兼書店「耕書堂」を開業

移転以降、それまで禁止されていた夜間営業が認められるようになりました。敷地面積は2万坪。200軒以上もの妓楼が立ち並び、2000人以上の遊女をはじめ、約1万人が生活していたといいます。妓楼だけでなく、茶屋・料理屋・みやげ物屋・湯屋などが立ち並んでいました。季節ごとのイベントもあり、遊廓を利用しなくても楽しめる江戸有数の観光名所になっていました。また文化人が集まるある種のサロンのような役割も果たしていたといいます。

吉原という閉鎖的で特殊な場所で生まれ育った蔦重は、のちの出版業につながるさまざまな感性や知恵を身につけ、太い人脈を築いていったのです。

安永元(1772)年、23歳の蔦重は、吉原大門前「五十間道」にあった義兄が営む引手茶屋の軒先を借りて、貸本屋兼書店「耕書堂こうしょどう」を開業しました。当時、書籍の値段は庶民には高価で、手軽な料金で本をレンタルできる貸本屋が繁盛していたのです。

しかし蔦重は、ただの貸本屋で終わるつもりはありませんでした。いずれは版元になりたいと野望を抱いていました。貸本屋として、妓楼や茶屋などの店に出入りすることで、吉原きっての事情通となっていきます。