皇子を産み、紫式部から「国母」として政治参加せよと教えられた

しかし、彰子は出産可能な年齢になってもその徴候は一向にあらわれない。焦った道長は、寛弘4年(1007)8月、皇子祈願のために金峯山に参詣し、子守三所権現(今の水分神社)等を巡詣する。さらに、金字で自筆書写した経を金銅の経筒に入れて埋納している。

なんと、この年の暮れには、彰子が懐妊する。しかし、呪誼でもされたらたまらない。道長は、彰子懐妊を秘密にしていたが、安定期に入って公にし、寛弘5年(1008)7月に出産のため土御門邸に移る。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」