加速していった「華やかで煌びやかなイメージ」
蔦重が売り出した出版物によって作られた、吉原の華やかで煌びやかなイメージは、それ以降もさらに加速していきます。より幕末に近づくにつれて、女性連れの江戸観光も増えましたが、江戸見物の一環で、浅草寺の観音様を訪れたついでに吉原見物もするというのが定番の観光コースとなりました。吉原で遊ばなくとも、あくまで見物に来る。今で言うなら、東京見物に来たらディズニーランドに寄るようなものです。
新撰組の前身である浪士組を組織した清河八郎という勤王志士がいます。彼は庄内藩、今の山形県出身ですが、郷里の母親をつれて旅行で江戸を訪れています。母親が見たいとせがむので、清河は母と一緒に、吉原遊郭に見物に行ったという記録があります。
このような観光地としてのイメージは、蔦重の登場以降、より強まったと言えます。それだけにこと吉原遊廓に注目すると、蔦重が果たした役割はとても大きいのです。
裏側には、「苦界」と呼ばれた過酷な境遇
しかし、冒頭でお話ししたように、どんなにエンタメ化されようとも、吉原遊廓の本質はあくまでも風俗街であり、そこに働く遊女は風俗嬢です。お金で遊女を買い、性交渉を行う場でした。
そこで働く遊女のほとんどが、借金のカタに売られた女子たちです。遊女は妓楼と契約を交わし、借金を返し終わるまで働かされるわけですが、それは実質的な人身売買でした。
また当時の未発達な公衆衛生や病気に対する意識の低さによって、多くの遊女が性病に苦しみ、あるいは無理な堕胎によって、亡くなっています。亡くなった遊女は、葬式もあげられず、投げ込み寺に送られるだけです。また、年季明けまで勤め上げ、吉原遊廓を無事に出た遊女は決して多くありません。仮に吉原から無事に出られたとしても、その後の人生も自由なものではありませんでした。
吉原遊廓という場所を見るとき、蔦重が巧みに演出した華やかな吉原遊廓の光の側面と、その裏で「苦界」とも呼ばれる過酷な境遇のもとで亡くなっていった無数の遊女たちがいたという闇の側面があります。吉原の歴史を見る際には、この光と闇の二面性を、改めて心に留めておきたいものです。