軍艦島を運営した三菱鉱業とはどんな会社だったのか
TBS日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」は、三菱(正確には三菱鉱業)が持つ端島、通称・軍艦島の炭鉱を舞台にした物語である。
三菱は土佐藩営の貿易商社・開成館を母体として、明治維新後は海運業者を営んだ。苛烈なダンピング競争で競合他社に打ち勝ち、日本近海の航路を独占して莫大な利益を得た。そのダンピングを支えていたのが、鉱山経営の収益だったという。鉱山で利益が出ているから、海運で多少損しても赤字にならないということだろう。
当時最先端の船舶は、石炭を燃料とする蒸気船だったので、炭坑を購入することは理にかなっている。三菱の創業は1870年といわれているのだが、翌1871年には紀伊新宮藩(和歌山県新宮市)からの代金滞納の見返りに万歳炭坑、音河炭坑を租借し、1873年には備中高梁藩(岡山県高梁市)が競売にかけた吉岡銅山を買収している。
そして、1880年に米コロンビア大学に留学した技術者を採用して、吉岡鉱山長に着任。最新鋭の技術で採掘を行い、付近の鉱区を買収させた。1881年に土佐藩出身の後藤象二郎から高島炭坑を買収。さらに1884年に高島周辺の鉱区を買収し、1890年に端島炭坑を買収した。
1918年に三菱合資の鉱山部と炭坑部を分離して設立された
三菱は海運会社として創業したが、炭坑・鉱山の買収、造船所の払い下げ、銀行の救済などで業容を拡大していった。主力の海運では三菱の独占に対する反発が高まり、三井らが共同運輸会社を設立して対抗。熾烈な競争の中、1885年に創業者の岩崎弥太郎が胃ガンで死去すると、2代目社長・岩崎弥之助(弟)はこのままでは共倒れになると危惧。三菱の海運事業と共同運輸会社を合併させて、日本郵船会社を設立した。
弥之助は日本郵船会社の経営から一歩身を引き、海運以外の事業を集約して三菱社(1893年に三菱合資会社に改組)を設立。現在の三菱グループの母体をつくった。三菱合資は1908年に事業部制を取り入れ、部の再編を繰り返した後に、事業部を分離独立して財閥直系企業(三菱では分系会社という)を設立した。
端島を所有する三菱鉱業は、1918年に三菱合資の鉱山部と炭坑部を分離して設立された。その他は1917年に三菱造船(現・三菱重工業)、1918年に三菱商事、1919年に三菱銀行、1937年に三菱地所が設立されている。