もともとは稼ぎ頭だったが、エネルギー革命が起きて斜陽に
鉱山・炭坑部門は稼ぎ頭で、1894~1908年の三菱の収益の68.5%を両部門で担っていた(ちなみに鉱山の方が炭坑より稼ぎが上)。そもそも三菱商事の源流となった三菱合資営業部は、元は売炭部といって、炭坑部門で掘った石炭を販売する部門だったのだから、その貢献度がわかるというものだ。ただし、1910年代後半には三菱造船が莫大な利益を上げるようになり、三菱の製造部門は鉱業から造船へシフトしていく。
1945年に日本が敗戦を迎え、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって日本が占領されると財閥が解体され、過度経済力集中排除法により三大財閥の鉱業会社は炭坑部門とそれ以外が1950年に二分割された。三菱鉱業は鉱山部門を三菱金属鉱業として分離した。
【参考記事】「三菱の名を汚すような相手に会社は渡すわけにいかない」同窓会と化した「三菱金曜会」に残された役割
しかし、その頃から、石炭から石油へと変わる「エネルギー革命」が起こる。三菱鉱業は鉱山部門を分離し、炭鉱経営一本槍だったので、危機感が強かった。1952年に調査部を設置して多角化を模索し、1954年に三菱グループ各社との共同出資で三菱セメントを設立。幾つかの炭坑は閉山が検討され、1959年には三菱グループ社長会「三菱金曜会」の席上で、離職者の受け入れをグループ各社に要請している。
軍艦島の端島、高島、大夕張の3炭鉱を除き人員を削減
「海に眠るダイヤモンド」の時代設定は1955年以降なので、企業経営としてはちょうど難しい時期に差し掛かっていた。端島、高島(長崎)、大夕張(北海道)以外の炭坑では、退職の勧奨、減員補充なしという措置がとられた。また、閉山にともない、この3山に転職する者も少なくなかったらしい。
1960年代中盤に至って、三菱鉱業は採算が取れない炭鉱部門を切り離すことを決め、1969年5月に端島炭坑は高島炭坑とともに三菱高島炭礦として分離。大夕張炭坑も三菱大夕張炭礦として分離・設立され、1973年に両社が合併して三菱石炭鉱業となった。
本体の三菱鉱業は1973年に三菱セメントを吸収合併して三菱鉱業セメントと改称。1990年に三菱金属と合併して三菱マテリアルとなった。三井・住友の炭坑会社は経営不振のため、商号を取り上げられている。三菱鉱業は実質的に吸収合併されたとはいえ、唯一の成功事例だったといえるだろう。
一方、端島は1964年8月に坑内で自然火災が発生。1965年10月に近隣の三ツ瀬地区の炭坑が開発されるまで、出炭停止となった。しかし、その三ツ瀬も1970年の調査の結果、これ以上の稼働が難しい状況と判断され、1974年に閉山された。