※本稿は、中野剛志『入門 シュンペーター』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
シュンペーターは日本の伝統文化に魅了された
「イノベーションの理論の父」といわれる経済学者ジョセフ・アロイス・シュンペーターは、日本とどのような関わりがあったのでしょうか(*1)。
明治維新以降、経済発展を目指す日本にとって、『経済発展の理論』の著者であるシュンペーターは非常に重要な経済学者でした。このため、戦前、多くの経済学者がシュンペーターから学ぼうとしました。後に戦後日本の経済学界における重鎮となる中山伊知郎や東畑精一は、ボン大学に留学してシュンペーターに学び、ハーバード大学では都留重人が彼の指導を受けました。
また、1924年、銀行の頭取を辞した後のシュンペーターに、最初にポストをオファーしたのは東京帝国大学だったそうです。1931年、シュンペーターは日本に招かれて講演を行ない、大きな反響を呼びました。この来日時、シュンペーターは、東京、日光、箱根、京都、奈良、神戸を訪ねて日本の伝統文化に触れ、大いに魅了されたようです。
シュンペーターの理論が、戦後日本の奇跡的な発展に結実
シュンペーターが著した11の書籍のうち、10が邦訳されています。これほどシュンペーターの著作の翻訳が出た言語は、日本語だけとのことです(*2)。
このように、戦前の日本人たちは、かなり早い段階からシュンペーターに着目し、その理論を貪欲に吸収しようとしていたことが分かります。
そして、それは、戦後日本の奇跡的な経済発展へと結実しました。シュンペーターの評伝を書いたトーマス・マクロウは、こう書いています。
日本では、占領軍が撤収した1952年から石油危機の1973年まで、政策担当者たちが、シュンペーターの示唆の多くを非常に注意深く採用したのである(*3)。
もちろん、純粋にケインズ的、マルクス主義的、シュンペーター的あるいはハイエク的な国民経済というものは、存在しない。しかし、1953年から1973年の奇跡的な経済成長期における日本的システムの中核がシュンペーター的であったことは間違いない(*4)。
戦後日本の経済発展は、まさにシュンペーターの理論を立証するものだったのです。そして、シュンペーター派の研究者たちからも、そう見なされていました。例えば、イノベーション研究の第一人者クリストファー・フリーマンは、日本の産業政策を研究しています(*5)。
シュンペーターの理論を継承した経済学者のウィリアム・ラゾニックも、日本の資本主義に関心をもっていました。