“隠れている意味”を書かないと「不正解」
「けり」や「だに」以外にも、形を変えて現代まで残っている表現は他にもたくさんあります。例えば、以下の言葉を、どのように解釈しますか?
翌日や来週など、現在よりも先の天気が「晴れてほしい」、という意味だと解釈する人が多いと思いますが、これも実は古文の世界の表現が隠れています。「のに」というのは、昔は「まし」という助動詞として使われていました。
例えば、古文の世界では「まし」を使って、こんな現代語訳の問題が出題されます。
「わが背子と二人見ませば、いくばくかこの降る雪のうれしからまし」
注:背子=夫
これは、「我が夫とこの雪を2人で見たら、どれだけこの降る雪が嬉しいだろうか」と訳すことができるわけですが、これだけではまだ半分です。「まし」は、「A(本来・予想)とB(現実)との対比」を示す助動詞であり、「理想はこうだけど、現実はこうそうなっていない」という意味の言葉です。
「現実と違う」からこそ、「反実の仮想=現実と反する、仮の想像」という意味で、古文の授業では「反実仮想」と習います。
この文は、「我が夫とこの雪を2人で見たら嬉しい」という理想しか書いていませんから、現実はそれと逆、「夫がいないから、この降る雪が嬉しくない」という意味が隠れていることがわかります。
「現代語だけ勉強すればいい」の落とし穴
現代語の「のに」はこれと同じく、「反実仮想」です。つまり、「晴れたらいいのになぁ」とは、「晴れたらいいけど、晴れないなぁ・晴れないだろうなぁ」という意味になるのです。明日はお花見なのに、降水確率が高くて無理っぽいな、というような状況だと解釈できます。
なぜ、「けり」とか「だに」とか「まし」みたいな、昔の人が使っていた古典文法を覚えなければならないのかと言えば、それが現代まで繋がっているからなのです。古典文法を勉強することは、今現在使っている言葉をよりよく理解することに繋がっているのです。
「でもそれだったら、現代語の勉強をすればいいじゃないか。わざわざ古文を経由して覚える必要なんてないだろう」と思う人もいるかもしれません。しかし、そこには大きな落とし穴があります。
例えば、この「のに」と同じような使い方をする表現って、現代においては無数に存在します。「晴れたらいいんだけど」でも「晴れてほしいんだが」でも「晴れないかな」でも、なんでも「晴れたらいいけど、晴れないだろうな」という意味になってしまいます。
一方で、古文では「まし」を使わないで反実仮想の意味になることは、ほとんどありません。古文の時間に覚えた通り、しっかりとルールがあって、「この助動詞があるときはこの意味」というのが明確に存在していたのです。
つまり、現代の言葉の方が、昔よりも難しくなってしまっているのです。ルールに則って覚えれば解釈することができる古文の方が、実は理解しやすいのです。