自分のなりたい未来予想図を描く
私の教師経験からすると落ちこぼれには2つのタイプがある。1つは勉強が人よりもできないという意味の落ちこぼれ。もう1つは豊かな感受性のために集団に溶け込めず学校教育の枠から浮いてしまう“浮きこぼれ”だ。
私は子供の頃、先生の話すことに疑問を持ちながらも「はい」と言える同級生たちの中で、「はい」とは答えられずに先生や周りの人と折り合いがうまくつけられなかった。よく覚えているのは小学校の学活の時間に「将来の夢」について発表したときのことだ。私は「正義の味方」と自分の考えを言った。ほかの子は医者や宇宙飛行士、弁護士、野球選手をあげた。先生から「また、弘君ふざけてる」と怒られたが、「本当に怒られるようなことなのかな」と違和感を抱いた。今考えると私のほうがまともだったと思う。
夢はイコール職業ではない。自分のなりたい未来像を選択する手段として職業が存在する。その意味で私は今、“ワルの権化”から立ち直って、堂々と正論を言える人間でありたいという夢が実現した。その手段が政治の世界に入ることであり、大学で教えていることでもある。職業なんか夢ではないし目的でもなく、ましてや職業があるから人に信頼されるわけではない。人間性の問題であり、生き方の夢があってこそ職業という選択肢が存在する。こうした順番さえシンプルに伝えられない教育現場はおかしいと思う。