無意識の偏見がだれかを傷つけている
いまの世の中、やっぱり言われた側がどう感じるかが重要だと思う。近年、ハラスメントの認定基準は、言った側の意図とは関係なく、言われた側の主観的な感じ方が重視される。傷ついたときには「傷ついた」と言う権利はあるはずだ。自分の気持ちを表明する機会は保障されるべきである。
近年、このような発言は「マイクロアグレッション」と呼ばれている。マイノリティの属性をもった人に対して無意識に尊厳を傷つけたり、敵意を示したり、排除したりする言動を指す。「日常に潜む攻撃性」と説明されることもある。
僕は、日本でもたびたびマイクロアグレッションに出くわすことがある。初対面の人に名前を名乗ると、「日本語が上手ですね」とか「日本には長く住んでいるのですか」と言われることがあるのだ。
もちろんイラッとする。僕は古文が昔から得意だし、日本史はセンター試験でほぼ満点だったし、今でも明治期以降の外交文書や擬古文はスラスラ読める。ライターもしているし、「あなたより日本語能力は高いですよ」と思う。生粋の大阪生まれで、関西弁をこんなにべらべら話しているのに、「日本に長く住んでいるか」なんて愚問でしかない。
でも、僕はそうとは言わないようにしている。角が立つからだ。「ああ、日本生まれ日本育ちですから。日本語の母語話者ですよ」と丁寧に答える。大人の対応を心がけている。ただ、僕だけが大人の対応をしないといけないというのもまた変な話である。
「在日コリアンは差別される」は過去の話
在日コリアンの間でよく言われてきた話に、「在日コリアンは、日本でも韓国でも差別される」というものがある。
たしかに、在日コリアンは日本ではいまでも一部の公務員になれないし、選挙権はない。韓国に行っても、在日コリアンは韓国語がうまくないということもあり、差別されることがある。在日コリアンが置かれたそのような状況を指し示す言葉として、僕も何度か聞いてきた。
ただ、僕はこの言葉をそのまま現代に適用できるとは思っていない。出所はよくわからないが、在日コリアンがわりと自由に日本と韓国を行き来できるようになった1980~1990年代ごろから言われるようになったのではないか。その時代はまだわかる。日本での差別はきつかったし、韓国でも「よそ者」として扱われていた。